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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
     四 明和五年越前一揆
      関係者処分と藩政の変更
 福井藩の一揆に対する対応はほぼ受身一方であった。家老の家が打毀されないよう防備し、また一揆勢が城内へ入り込まないよう、七つの城門へそれぞれ先手頭以下を配置し、弓・鉄砲等の武器をもって固めたが、積極的な武力鎮圧は行わなかった。一揆側も藩との正面対決を避けており、武力衝突は最後まで起こらなかった。この時他の越前諸藩が積極的に対応した形跡もない。
 四月二日の吉崎見谷屋の一件があり、やがて三国へ寄せて来るという噂が同町内に広がった時、金津奉行から三国町へ次のような連絡があったという(『三国町史料』)。
若ミのむし(蓑虫)参り候ハゝ町中ノ者共寺方役人中はかま(袴)を着てわい(手配)可申様被仰付候、酒屋へハミのむし共へ酒の(飲)ませ可申、町内頭立申ものはめし(飯)をたき(炊)くわ(食)せ可申、
 ひたすら一揆勢が暴発しないよう努めるだけであったことがわかる。このため一般の町人・百姓から一人も処罰者は出なかった。「一国之さわ(騒)き候得共御とか(咎)め人ハ無之」(『三国町史料』)といわれる結末であった。
 かえって処分は藩政担当者に対して厳しく行われた。藩主重富は四月十六日に江戸において家老酒井外記を「急度慎」とした外、寺社奉行・目付・郡奉行・大工頭を「急度遠慮」とするなど仮の処置を行い、帰国後七月一日に改めて関係役人の処分を発表した。民政にかかわったほとんどの役人を罷免・交代させた厳しい内容であった。酒井外記は罷免され、直接鎮圧の責任を負っていた目付の太田三郎兵衛は知行の内一五〇石召上げの上「遠慮」とされた。民衆の怨磋の的となっている彼等を処分することで、一揆の再発を防止しようとしたことがうかがわれる。この点を「明和五年蓑虫騒動記」(桑原喬家文書)の筆者は「御仁政」と評価したが、藩としてはこのような処置をとらないかぎり百姓町人の怒りは静まらないと判断したのであろう。
 打毀しの対象となった御用達商人に対しても七月十三日に処分を行った。極印屋庄左衛門と美濃屋喜左衛門には最も重く、急度慎みの上家名変更と町裏屋への所替えを命じ、新屋三郎右衛門へは五人扶持の内二人扶持取上、見谷屋助右衛門には三人扶持取上、御用達御免とした。極印屋と美濃屋の処分は「御家中之面々へ対シ不礼相働、其上御用達を請諸人之難儀も不顧取扱共不届至極」というのが理由であった。「家中之面々へ対シ不礼」とは具体的に何を指すのか明らかでない。利欲追求による「諸人之難儀」に重点が置かれていたものと思われる。もっとも、右の四人は共に宝暦十一年に御用達・札所元締に任じられ、新規扶持米、あるいは加増を受けており、藩財政に少なからぬかかわりをもっていた。そのため比較的庶民の批判が少ない新屋にはそのまま御用達を勤めさせ、安永四年(一七七五)二月には美濃屋と極印屋も御用達に復活する(「御国町方」松平文庫)。
 とはいえ、一揆後の藩の財政・民政策は大きく変更を余儀なくされた。一揆側の具体的な要求に対する回答は先のとおりで、升については五月二十九日に「明和五子」と焼印した新しい升を製作、以後これを通用させることにした。財政策は根本的な見直しが必要となった。農政面では、まず明和六年四月二十七日、今年より見取免とすることを確認した。十月には宝暦十一年までの見取免の扱い方を「去免」として、年貢率や下行米額をすべてこの時点に戻し、これを基準として今年の作柄にあわせて年貢を決定するとした。また、同年六月に「町在〆(しま)り」を目的に大庄屋制を設けた。宝暦十一年に組頭制を廃止していたのを復活し、大庄屋と改称して設置したのである。人数は少なくして計一八人とし、多くはかつての組頭から任命した。明和七年閏六月には代官の人数も七人から一四人に戻し、手代も元どおりとした(「家譜」)。つまりすべては宝暦十一年の農政改革以前の体制に戻したわけである。
 なお、この一揆については、「一揆物語」ともいえる前掲「北国侍要太平記」や、「ひら仮名盛衰記」「御法談」などのざれ文、あるいはざれ句が多数作られた(『国事叢記』)。ざれ句には藩役人や御用商人を鋭く風刺したものが多く、前掲「明和五年蓑虫騒動記」にも打毀した商人たちを風刺したざれ句が記録されている。作者はいずれも不詳ながら、一部の武士や百姓・町人と思われ、彼等の中にそのような遊びを楽しめる雰囲気があったことを物語っていて、文化的な面からも注目される。
写真98 明和一揆のざれ句(『国事叢記』)

写真98 明和一揆のざれ句(『国事叢記』)




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