目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
     四 明和五年越前一揆
      一揆の要求
 百姓側の要求が出されたのは、藩の高知衆が乗り出して東西本願寺掛所へ集め、鎮まるよう説得を行った三月二十九日のことである。この時、用水、村方先納、役人尻なし頼母子、運上、蔵升、作食、定免、綿・麻直納のことなどが列挙された。しかし、その後にも加えられたらしく、五月十二日に出された藩の回答(『国事叢記』)によると、はるかに多くの項目にわたっていた。それらを順に番号を付け回答内容を含めて示すと次のとおりである(下段が回答)。なお、一揆の大きな原因の一つが御用金であったが、これは三月二十六日の段階で藩が中止を決めたため、ここにはあがっていない。
 (1)餓死米と(2)作食米の下付……先に返答したとおり許可
 (3)農具・種代の下付……村方から新百姓の取立て願を出した時に与える
 (4)見立免(検見)の実施……新規に検見を希望した村には認める
 (5)綿・麻直納の許可……願いどおり許可
 (6)川北地方の用水確保……用水方役人を派遣し吟味する
 (7)五歩方の米納、(8)年貢関係諸値段の町相場での算用……定法があり不許可
 (9)無貪着な役人や(10)町人共の内悪み深い者、および(11)私欲贔屓する役人の指導処罰
                ……藩主が帰国の上吟味する
 (12)新規諸運上、(13)家中先納の中止、(14)百姓願の円滑な処置、(15)連判諸借金の永年賦許可、(16)町在囲米の中止
                ……後日に役人が村々を回り吟味する
 (17)不正な升使用の中止……新規に公定升を製作
 (18)諸借金永年賦、(19)今年の奉公人裏書手形延期……どこの村の願か不明のため回答しない
 (20)三橋村百姓願の実現……後に吟味する
 多岐にわたる一揆側の要求項目であるが、まとめるとおよそ次のように分類できる。
 (A)生活と農業耕作の維持……(1)(2)(3)(6)(15)
 (B)年貢負担軽減とその納入法の改善……(4)(5)(7)(8)(12)(13)(16)
 (C)町方の商業・流通への不満……(5)(7)(8)(10)(15)(17)(18)
 (D)役人の非違・不正、給人の横暴糾弾……(6)(9)(11)(13)(19)
 (E)藩民政の停滞批判……(14)(20)
の五つである。村方に関するものが中心だが、町方にかかわるものも少なくない。とくに(A)の(1)は町在の困窮者に共通する基本的な要求であり、当初これを掲げて一揆が始まったのであった。(A)(B)に含まれる(2)以下の項目は、百姓の基本的な生活と農業経営、それに再生産可能な農民生活成立ちを求めたものである。(4)は六年来続いている年貢増徴策としての定免制を検見制に戻すよう訴えている。(5)は寛延元年の強訴の際にも問題となった手形商問屋の豪商慶松五右衛門等に委ねていた小物成の綿・麻の納入を藩の蔵へ直接上納したいという要求である。(7)の「五歩方米」は村高一石に五升の割合で徴収される年貢の一種「夫米」のことで、これを銀納から米納にするよう求めたものである。米価によって負担額が上下するのを嫌ったのである。(12)(13)(16)は新規に設けられる負担への不満である。

表127 明和5年(1768)一揆で打毀し等にあった家

表127 明和5年(1768)一揆で打毀し等にあった家

 (C)は城下の商業と流通が藩役人と結んだ御用達商人等を中心とする有力町人によって左右され、彼等が暴利をむさぼり、諸民に難儀を与えていると指摘したものである。表127は打毀しにあった家々を書き上げたものであるが、城下商人はいずれも藩と関係する特権的商人か、庶民生活に直接影響する米屋・高利貸し等で、不当な利益をあげているとみなされていた。(10)はそれを端的に示す項目である。(15)(19)は年貢等のために町の高利貸しに金を借り、返済できずに田畑を手放す者が増加していた状況からであろう。
 (D)(E)は武士階級、藩権力への批判である。二十六日、牢を破って入牢者を解放した一揆勢は、家老以下民政にかかわる役人に対しても容赦のない非難を浴びせていた。(E)の(14)は宝暦十一年に組頭が廃止となって以来、諸願を容易に藩へ提出できなくなったことを指す。
 以上のように多種多様な要求が出されているのがこの一揆の特色である。同時に元禄(一六八八〜一七〇四)・享保期までの一揆と比較すると、共通する部分が多い反面、商業・流通関係などが大きな位置を占めており、農村の商品経済と深い関連をもつ一揆であったことがうかがえる。



目次へ  前ページへ  次ページへ