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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
     四 明和五年越前一揆
      藩札騒動
 福井藩の藩札は享保十五年(一七三〇)の幕府の解禁によって再び発行されるようになった。ところが、二年後の十七年の秋には早くも札銀騒ぎが起こった(『続片聾記』)。元文二年(一七三七)正月には札所不安の噂、寛保元年四月には札所元金への不安から同じく「騒敷」事態が起こっている。
 寛保元年九月、幕府の老中を招待する能興業の資金調達を名目に領内に御用金を課したが、翌二年三月十八日、札所両替資金の不足から「国中騒」といわれるような札所騒ぎが起こった。札所の両替が資金不足から停止されたからである。藩は元締共へ「身上潰申程」となるまで資金上納に協力するよう命じたが、彼等はすぐには応じず、両替が可能となったのは五月二十五日頃であった。藩は六月十六日、青木甚兵衛・備前屋吉右衛門・極印屋勝左衛門の元締三人を大工町の牢獄へ入れ、混乱の責任を負わせた。他に五人の元締も処分を受けたという(「諸事御用留抜書下書」松平文庫)。
 しばらく平穏が続いたが、寛延元年二月十三日、再び藩札騒ぎが起こり、今度はそれが強訴に発展した。原因は藩が意図した他国での金子才覚が失敗し、この一月、五万五〇〇〇両の御用金を領内に課したことにあった。藩が財政難から多額の御用金を課すということで、札所の資金不足がささやかれて騒ぎとなり、御用金反対の騒動へとなったのである。折しも前年は不作で、餓死者の話が出るなど社会不安が高まっていた。
 『続片聾記』によれば、十二・十三日には町方、十四・十五日には在方から大勢参加した。町方では御用金反対を叫び、とくに下層町人は札所両替が止まったことから、餓死すると町奉行所へ訴えた。在方では川北領と下領支配下の者が多く参加した。下領二四か村(『片聾記』)あるいは一三か村(『国事叢記』)の者は月番家老松平主馬宅式台にまで上がって直訴に及んだという。城下の発坂屋・吉野屋・朝谷屋・新屋・関東屋等へ食事乞に大勢詰めかけ、医者の家にまで押しかけた者があった。在方でも地頭へ作食願に出た。
 藩は御用金の中止と町在困窮者へ救籾二七五俵の放出を発表して、事態を収拾するしかなかった。十七日には綿・麻の上納物を扱う慶松を初め、発坂屋・新屋など札所元締、米屋などの町方有力商人九人を戸締め処分とした(『国事叢記』)。
 とはいえ町方が騒ぎ、これに呼応して在方百姓が加わった一揆は初めてであった。それが典型的に現れたのが明和五年(一七六八)三月の大規模な一揆である。



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