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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
     四 明和五年越前一揆
      明和一揆の背景
 この一揆が起こった頃は、全国的にも百姓一揆が高揚したときであった。越前にあっては、宝暦六年の本保騒動からまだそれほど遠くなく、明和期に入ると一揆・打毀しの動きは各地に生まれていた。
 明和三年正月、鯖江藩領で郷盛に反対する落書騒ぎが起こった。今立郡広瀬組大庄屋支配下広瀬・東俣・入谷・桧尾谷・三ツ屋の計五か村の者五人が相談し、「領分一統之願」とした願書を鯖江町の藩重役屋敷へ落書したのである。藩の吟味結果によれば、五人の内首謀者を除く三人が庄屋で、一人は親が庄屋を勤めていた。五人以外にも協力した庄屋がいた。首謀者の広瀬村茂郎右衛門は、以前にも落書を村々へ働きかけて牢舎となった経験があった。今度は用意も周到で、五人が共同で願書を認め、代金を支払って他人に清書を頼んでいる。落書の実行方法は同郡薮田村の者に相談の上、鯖江町の時内という人物に銀子を与えて行わせたものであった(『間部家文書』)。庄屋層を中心として計画し、落書の経験を積み重ねた上での実行であったことが注目される。翌明和四年八月十三日には三国で尾張屋五郎兵衛家が打毀しを受けた。尾張屋が大野地方の米一万俵を買い占めこれを他国へ積み出そうとしたからという(『三国町史料』)。明和五年の一揆はこのような社会情勢を背景とし、一揆や打毀しの経験の広がりの中で起こされたのであった。
 さて、明和五年一揆の原因には年貢の過重、災害、米価、御用金賦課、藩札不安など、様々な問題がからんでいた。年貢は宝暦十一年以来の定免制継続による取立て、災害は三年に藩江戸屋敷と城下三橋町地方から出火して二六七六軒が類焼した火災、米価は藩の明里蔵米七〇〇〇俵が三国へ川下げとなったことや御用達商人の美濃屋が大野辺から米五〇〇〇俵を買い入れ他国販売したとの噂などによる騰貴不安であった。実際、それまで米一俵銀二四、五匁だったのが、当時三一、二匁に上がったという(『国事叢記』)。御用金は五年二月、藩主の帰国費用と称して一万五五〇〇両の賦課が江戸から伝えられたもので、これが直接の引き金であった。



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