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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
     四 明和五年越前一揆
      福井藩政と農村
 福井藩は十八世紀に入る頃には財政難が決定的となり、正徳元年(一七一一)二月、藩主吉邦が「御国反乱程之困窮、度々用金ニ家も離れ家職をも相止申者茂有之由、勿論家中渇命の仕合」と指摘する程の切迫した状況となっていた(『国事叢記』)。それにもかかわらず、藩当局の打開策は年貢の増徴、倹約や家臣団からの借知、御用金・才覚金の賦課、藩札の運用などでしかなかった。中でも安易な御用金に依存する度合が増し、寛保三年(一七四三)の日光修復にともなう六万五〇〇〇両の御用金賦課の時は徴収に成功したものの、寛延元年(一七四八)正月に五万五〇〇〇両を課した時はただちに反発を招き、後述のように一揆が起こり中止せざるをえなかった。
 福井藩が思い切った改革に着手したのは宝暦(一七五一〜六四)期後半である。宝暦八年十月、農政の抜本的見直しと改善を郡奉行に申し渡した。十一年には代官を一四人から七人に半減、三年間の年季定免、組頭制の廃止などを次々と進めた。新たに郡奉行役所を設け、翌年からはそれまで代官が行ってきた民政関係を一括してここで扱わせ、代官を年貢取立に専念させた。組頭制への百姓の不満を除くとともに、年貢の安定的確保と村方の一元的支配を行うことで事態を乗り切ろうとしたのである。
 ところがこの時期、百姓の疲弊は想像以上に厳しかった。宝暦九年十二月、吉田郡東古市村では四人の百姓が欠落したが、藩の知るところとなって家財没収、妻子とも居村追放となった。この四人は一一石余から二三石余を持つ百姓であった(『永平寺町史』通史編)。同十三年、足羽郡南山村では三人の百姓が欠落して家財没収、妻子居村追放となったが、三人とも中位以上の高を保持していることが判明する(後藤沢右衛門家文書)。彼等のような百姓が年貢のために欠落し、全財産を没収され、家族も村追放となるところに事態の深刻さがあった。



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