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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    三 本保騒動
      騒動の余波
 騒動の名残りがまだ冷めない二月一日、福井藩領丹生郡山干飯一三か村の百姓が、府中の米会所を襲うという話が伝わった。本多氏の家臣団はただちに手分けして警戒に当たり、福井藩へも応援を求めた。寺々の鐘をついて合図をするというので、寺の鐘突きを禁止した。話の発端は、大坂商人で府中に店を開いた米問屋の評判が悪く、米値段の騰貴は彼の仕業と憎まれたことかららしい。前年秋にも家に「火札」が二、三度張られたという。だが、これは噂に終わり騒ぎは起こらなかった(「家譜」)。
 二月十九日には三国町で尾張屋五郎兵衛・室屋惣右衛門、及び丸岡藩領梶浦の又兵衛の三軒を潰す風聞が立った。二十日・二十二日・二十五日・三十日のいずれかの日に幕府領の百姓たちが押し寄せるという話である。三国へは福井藩金津奉行が鉄砲を用意し兵を率いて到着、町内は戦争かと思われる混乱ぶりであった。しかし、実際にはここでも何も起こらなかった(『三国町史料』『国事叢記』)。
 本保騒動は頭百姓の制裁に重点が置かれたため、一揆側の成果とすべきものは具体的にはみられなかった。年貢は、翌七年夏には前年に続く大きな水害が発生したこともあり、全体に軽減されたが、翌八年からはまた元に戻っている。
 本保陣屋の支配にも変化はなかった。代官の内藤十右衛門は七年十月に交代したが、とくに咎を受けたという記録はない。とはいえ、越前においてかつてみられなかった大規模な一揆であり、これが越前各地に与えた影響は大きかったであろう。



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