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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    三 本保騒動
      鎮圧と処罪
 幕府は享保十九年(一七三四)八月、全国の代官に対して、幕府代官所の支配地で一揆が発生し急を要するときは、幕府に伺いを立てず隣接の大名に援兵を頼むよう指示し、各大名にもこれを伝えていた(『御触書寛保集成』)。本保陣屋からの要請をうけて、二十六日には福井藩兵の外同藩本多氏が百余人、鯖江藩も二二一人出兵した。大野藩も一二四人の出兵体制を調えた。だが本多氏や鯖江藩は当日本保陣屋を警固したため、直接一揆側と接触したのは上真柄村に向かった福井藩兵であった。福井藩は寛延二年、幕府の指示で播磨姫路藩領の一揆に御側物頭の太田三郎兵衛を派遣しており、一揆の原因や鎮圧・事後の吟味、鉄砲の使用の事などまで確認していた(『国事叢記』)。これらの経験を踏まえて動員体制を組み、出動したのであった。このように領主側の百姓一揆鎮圧態勢は整えられていた。

表126 本保廣動の処分者一覧

表126 本保廣動の処分者一覧
 ところで福井藩は、百姓の捕縛をしないことを出動前に藩方針として決定し、そのとおり騒動の鎮静にのみ努力して引き上げた。しかし、本保陣屋では急遽江戸から到着した代官内藤十右衛門忠尚の指揮のもと、参加者とその頭取の確認及び吟味に努め、八月、大々的な処罰を強行した。それは幕府が寛保元年(一七四一)に定めた規定をそのまま適用した厳しい内容であった。重罪者は表126のとおりで、獄門一、死罪二、遠島二、追放一七、所払四、計一五村二六人に及んでいる。これらに加え獄門・死罪・遠島者には田畑家財闕所、追放者には江戸十里四方追放の場合は越前での田畑家屋敷闕所か財産没収とされた。所払の者は田畑だけ取上げとなった。これ以外にも庄屋五一人に銭五貫文ずつ、長百姓五八人に計七〇貫文、余田村には別に二五貫文を課した。外に余田村・上石田村で一〇貫文ずつ二人、上野田村・下野田村・小泉村・下氏家村の長百姓六人には七貫文の過料が課されている(『間部家文書』)。過料となった百姓たちは全員村役人を解かれた。関係の村数では丹生郡二五か村、今立郡二〇か村、計四五か村にもなる。
 余田村庄屋の処罪理由を示す「獄門札」(『間部家文書』)には、頭百姓共を疑って禁制の徒党頭取となり、上野田村・下野田村・気比庄村の者と申し合わせ、家財破却を実行させ不届至極、とあった。なお、宝暦九年六月「本保騒動百姓仕置書付」(金森穰家文書)には、西尾村・萱谷村・大手村について、百姓共は「急度叱」、水呑百姓共は「御叱」となったと代官手代が記している。水呑百姓まで処分されていたのである。
 獄門・死罪は八月二十五日、本保村で行われた。遠島者はただちに江戸送りとなったが、その一人小泉村庄屋のために親戚の者が後を追って金子などの「みつぎ(貢)物」を江戸へ持参している。これ以後も人々は重い処分に長く苦しみ、後々まで語り伝えたことであろう。代官所は処分の結果を記録にとどめ、宝暦九年、幕府領の一部が旗本金森左京家領となったとき、同家へ前掲の「仕置書付」を申し送った。代官所の指示があったのか、宝暦十年「下野田村差出明細帳」(加藤五郎左衛門家文書)には処分者名を明記している。



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