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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    三 本保騒動
      一揆の準備と論理
 一揆の準備は早くから組織的、計画的に行われたらしい。『国事叢記』によると、正月十六日に糺野(川濯堂の森か)で集会、十八日には同所で傘連判状を作成した。そして、もし事が事前に露見した場合は府中の米問屋に向かう、という答え方まで決めていた。怪しまれないように鯖江町で草履を購入しておくことや、大寺へ食事を頼む手配も調えていた。打毀しに赴く前に代表八人が事前通告し、近村へも同じく触れておくこと、火の用心、家財道具を持ち出し焼いた場合は窃盗の嫌疑がかからないよう一部を残すこと、農具以外には剃刀のような武器も持たないこと、等々も確認してあった。後の処罪を恐れて「北在は南在辺へ、東之者は西へ」と入り交り、青・黄・赤・白・黒や各氏神等を合言葉とすることも定めていた。
 彼等惣百姓の願いは第一に年貢の軽減であった。ところが逆にこれが増加され、苦しい中からの与内銀はまったく無駄に終わった。江戸へ赴いた四人の頭百姓が納庄屋を命じられたことへの反感も大きかった。納庄屋には給銀が与えられることから希望者が多く、百姓間の関心が高かったのである(土屋豊孝家文書)。囲籾の払下げも困窮した百姓たちにとっては切実な願いであった。中でも問題にしたのは、頭百姓の裏切り行為であった。彼等は「自然の道」を外しており、制裁するのは道理であると主張した。代表の一人萱谷村の善右衛門は、一揆の頭取がいるかと問われて、次のように答えている(「本保百姓騒動一巻」)。
頭取与申者無之、時節到来、天然自然之道理ニ而風ニ木之葉之吹散り一所ニ集り候様成もの、地外字うぢの涌候道理ニ而有之、
 頭百姓共が「天然自然之道理」を踏み外したから、逆に小百姓共がその「道理」に従って出現したのであり、「地外字うぢの涌候道理」と百姓らしい表現で強調する。頭百姓が人々の期待を裏切り、しかも「金子貯家財心之侭」であるのに対し、われわれは「餓死之躰」であるという、同じ身分の百姓として許せないという論理である。したがって制裁行動は十分に正当性があるとの主張であった。
 なお、鎮圧に出動した熊谷に対して「福井様御仕置之通ニさへ候得者ケ様之躰ニ相成候儀者無之」と福井藩政を持ち上げ、本保陣屋の下代が四人と結託していることを指摘していた。だが、役人には特別不満はないと言って、領主の支配に敵対するものではないことを断っている。幕藩制支配の枠の中での百姓間の問題としているところがこの騒動の特徴であり、これは他の百姓一揆にも共通するところであった。



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