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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    三 本保騒動
      一揆の参加者と打毀し対象
 一揆参加者は、味真野河原で福井藩兵と対峙した時には約八〇〇人を数えた。「宮谷・大手・西尾・水間之谷・萱谷・服部谷」など今立郡二六か村の者ばかりで、丹生郡は一人もいなかったという。当初、計画の段階では高一〇〇石に三人の割合であったが、実施の段になって「家並ニ一人宛」となったとのことである。また、後の表126にみえるように、各村の庄屋・長百姓などが多数加わっていたことから推測して、この一揆は村役人層が先頭に立って行ったものであることがわかる。また、熊谷小兵衛と話し合った三人のうちの一人萱谷村の善右衛門は、自分は高一〇石を所持し、参加者は「惣小百姓共」であると述べ、打毀しをうけた上真柄村の庄屋も、誰一人名前を知らず、全員「名も無小百姓共」と思うと熊谷に答えている。これらからみて、この一揆は庄屋層を中心に「小百姓」である高持百姓が参加した一揆であったといえる(『国事叢記』)。
 一方、打毀しをうけたのは、「本保百姓騒動一巻」では本保村丈左衛門・池上村又兵衛・片屋村与次兵衛・二丁掛村加兵衛・上真柄村七郎右衛門の計五軒である。坪谷村の村役人を加え六軒という記録もあり(『間部家文書』)、宮谷村新兵衛・坂下村十兵衛の名が上がっていたともいう。江戸へ赴いたのは池上村・上真柄村・二丁掛村・坪谷村の四人の百姓であるが(「本保百姓騒動一巻」)、それ以外の家も打毀しの対象とされたのである。彼等はいずれも一揆側から頭百姓と呼ばれていた。このうち本保村の丈左衛門と二丁掛村の加兵衛は、寛延三年(一七五〇)には郡中惣代であった(河野次郎右衛門家文書)。したがって、大庄屋的な位置にあり、一般の百姓とは離れた関係にあったと思われる。



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