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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    三 本保騒動
      騒動の経過と打毀しの様子
 宝暦五年、越前は極度の天候不順による水害・虫損に見舞われた。福井藩はこれまで最高の一四万五〇〇〇石余、藩領高の約半分に及ぶ損毛があったと幕府へ届け出ている。このような中、本保騒動は発生した。六年正月二十二日と二十六日の二回にわたり、本保陣屋支配下六万石のうち丹生郡・今立郡の百姓が行った打毀しが中心である。騒動の経過や内容は、鎮圧に協力した福井藩の武士による「本保百姓騒動一巻」(松平文庫)や『国事叢記』に詳しく記されていることから、以下、これらを中心にみていくこととする。
写真96 福井番兵と一揆勢対峙図(『国事叢記』)

写真96 福井番兵と一揆勢対峙図(『国事叢記』)

 二十二日の昼から夜にかけて、「府中川その森(川濯堂カ)」(加藤河内家文書)に勢揃いした南条郡牧谷村や丹生郡の百姓約四〇〇人(八〇〇人ともいう)が押し寄せ、丹生郡本保村・池上村・二丁掛村・片屋村の頭百姓宅四軒を打毀した。翌日には本保陣屋へ迫る噂があり、あわてた代官所は福井藩府中本多氏や鯖江藩に応援を求めた。だが二十三日には何も起こらなかった。
 ところがその後、二十六日に今立郡上真柄村庄屋を数百人で襲うとの情報があるので出動してほしいとの代官所からの書状が再び福井藩へ届いた。騒動を鎮圧し、数人でも召し捕ってほしいとの依頼である。藩はただちに準備を進め、目付熊谷小兵衛以下総勢四〇〇人で同日未明に福井を出発した。一行は昼過ぎに福井藩領今立郡北小山村に到着し、同村の組頭宅を本陣とした。まもなく味真野河原に百姓が集まっているとの情報が入り、続いて上真柄村庄屋七郎右衛門宅へ押し寄せ、打毀しているとの報告があった。
 福井藩兵が駆けつけた時には、まだ打毀しの最中であった。事前に通告してあったらしく、家人は逃げ出し、家具・戸障子・縁板類まで片付けてあったが、一揆勢約三〇〇人は「斧・まさかり・懸矢、其外鎌・なた・鳶口」等をもって打毀し、四方の壁の大部分、柱も残らず傷つけた。制止する福井藩兵にもわかるほどの憎しみを込めた壊しようである。
 ようやく味真野河原に移って彼等の話を聞くことになった。福井藩兵と一揆側が対陣する中、一揆側から代表として出てきたのは今立郡宮谷村・西尾村・萱谷村の三人の百姓である。彼等は熊谷の質問に答え毅然とした態度で決起の理由を述べた。近年定免で重い負担の所へ昨年は百年来の不作、せめて三分の免引きを願うべく頭百姓に江戸への訴願を依頼し、苦しい中から高一〇石に銀一匁五分ずつの割合で与内銀を負担しあって送り出した。ところが、彼等は逆に一〇〇〇石分の「増免」を引き受け、廻米舟の上乗庄屋に任じられるという「良き御褒美」を貰って帰ってきた。外にも囲籾の払下げの件で不満がある。同じ百姓でありながら裏切られたという思いが募り、この上は餓死覚悟と一同決意して制裁に立ち上がったという。熊谷は、彼等の話に理解を示しつつ、しかしこれ以上騒動を続ければ実力行動に出ざるをえず処罰も重くなる、この場は鎮まり解散するようにと説得した。本保代官所へもよく伝えるというと、百姓側は納得し引き上げていった。その後流言はあったが、再び騒動は起こらなかった。二月五日頃にはほぼ完全に鎮まったようである(『間部家文書』)。



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