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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    三 本保騒動
      宝暦期の幕府領
 十八世紀後半に入った宝暦(一七五一〜六四)・明和(一七六四〜七二)期は、幕藩体制が大きく揺らぎ新たな変化を示し始めた時であった。それを顕著に示すのが百姓一揆の全国的な高まりと、その質的な深まりである。このことは越前でも明確に現れた。
 この時期、幕府は江戸期の中でも最も厳しい年貢増徴策をとっていた。幕府領の年貢率は元文二年(一七三七)以降明和元年までがとくに高いといわれるが、このことは越前の幕府領においてもほぼ同じであった。坂井郡野中村の場合、延享(一七四四〜四八)期をピークとし、次の宝暦期がそれ以前と比べてとくに高い米納額であることを示している(本章第一節)。この間、宝暦三年には囲籾の制度が設けられ、一万石につき籾一〇〇〇俵の割合で村に保存しなければならなかった。
 このため農村では困窮百姓が増加し、散田が続出するなど、深刻な事態に陥り、緊張が高まって、各地で様々な騒動が発生した。宝暦元年八月、福井藩領吉田郡御領ケ島の百姓が大挙して鳴鹿大堰を壊したことから、これから取水する十郷用水に頼る坂井郡の丸岡藩領・幕府領一〇二か村との間で激しい争論となった。翌年江戸出訴となり、同五年に幕府裁許が出るまで対立を続けた。次に同二年二月二十二日、理由は不明ながら坂井郡東長田村の幕府代官所へ三、四百人の百姓たちが押しかける事件が勃発した。高提灯三〇張ほどを掲げ、代官手代嶋津曽右衛門の借家の窓を破り、彼に出て来いと叫んだ。同役二人が現れ、「何様ニも願之通可申付」と宥めると、訴状を戸口に置いて退いたという(「御家老中御用留抜集」松平文庫)。
 宝暦二年十一月、大野町端の木本野開畑地をめぐって幕府領・鯖江藩領・大野藩領、計一三か村と大野町が争った。大野藩は「徒党理不尽ハ天下之御法度」と同領の関係六か村の者が争いに加わるのを制止したが、六か村から数百人、一三か村では計一〇〇〇人ほどが出て開畑や林を伐り荒した。大野町方からも彼等に対抗して百姓千四、五百人が繰り出し、二十一日から二十九日まで争い続けた(『国事叢記』)。その後江戸吟味となり、六年十二月幕府裁許が下って、不法と断定された村々の庄屋・長百姓・組頭は過料銭、百姓共は「急度叱」の処分となった(鈴木与兵衛家文書など)。
 宝暦四年閏二月十三日には、鯖江藩領で新運上に反対した領民が水落森に集合した。そのうち七〇人ほどで家中へ願い出たが、受け入れられないため江戸へ赴く藩主の駕篭にすがることになった。驚いた藩はこれを惣百姓による「徒党ケ間敷騒」とみなしつつ、結局新運上を断念せざるをえなかった(『間部家文書』)。



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