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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    二 百姓一揆の発生
      享保期の一揆
 享保期には丸岡藩一件、鯖江藩二件の一揆が起こっている。丸岡藩の場合は享保九年冬、領内惣百姓から一九か条の訴訟があった。十一月十九日から大勢が「城中へ罷越毎日相詰」、十二月一日には訴状を持参した。藩は後日裁許するといって退散させ、その後願いを承諾したため鎮まったという(「御家老中御用留抜書」)。訴状の内容は同月の藩裁許状によるとおよそ次のとおりであった(山田外字一家文書 資4)。
 まず藩借上金一〇〇〇両の返済を求めるとともに、年貢関係は土免村々納所米の延期と見立免村々および土免村々の満作加免の中止を要求した。人足関係では、用水人足役の平均化、郷中人足を高一〇〇石五〇人から三〇人に減らすこと、山付新江用水番の免除、滝谷通用人足は郷人足でもって済ますこと、さらに藩役人に関して家中頼母子講や役人への音物への批判、それに納所不足借用金利息を引き下げ二〇年賦とすること、代官などの村廻りの際に要する賄いへの不満等詳しく示した。この外に組頭について組頭入用や郷盛が多額であること、物価に関連して小物成と下行米値段を町相場によることなどもあげている。
 以上について藩は大部分百姓側の主張を認めた。年貢関係では加免を固守したものの、納入時期については年内に七割、残りは翌年七月まで延納を認めた。人足役に関しては、これは「古来より定式」であるとして軽減を認めなかった。役人に関するものは権力を背景とする彼等への音物や賄い、私欲への不満が高じたものであろう。組頭に関しては今後吟味し必要に応じて指導するとした。外に四か条あったが、これは新年になって吟味の上申し渡すことになっていた。強訴は成功したのである。
 ところが、一月になって用水人足の一〇年平均願と新江水番、滝谷人足関係は撤回すると村方から申し出があった。二月には坪ノ内村から支配組頭へ対し、用水に関する訴訟は一切関係ないとの証文が出され(土肥孫左衛門家文書 資4)、一本田村からも同様の願いが出た。藩は百姓共が勝手であると怒ったが、やむなく一〇か条にしぼって、ほぼ従前どおりの裁許を行った。このように、この一揆は年貢の過重負担問題を中心とし、その他多岐にわたる要求をともなった強訴であったが、実際のところ「小百姓共」を巻き込んだ百姓内部の結束はそれほど強くなかったのである。
 次に鯖江藩領の一揆は享保六年と十五年に起こった(『間部家文書』)。六年の場合は、間部家鯖江藩領が成立して最初の年貢徴収時期となった十一月に発生した。藩当局は予想に反して藩領からの年貢収入が少ないことで頭を痛め、御用金三〇〇〇両を賦課するとともに、年貢率を作柄に関係なく「御領分一同」に上げる予定を立てた。こうして十月二十五・二十六日の両日、村々へ年貢割付状を渡したところ、十一月になって「御領分村々不残免上り百姓共難儀」と江戸藩邸への訴訟計画が起こったのである。高一〇〇石に銀一二匁ずつ出し合い、五〇人の代表団を江戸へ送る予定という。あわてた藩は、江戸へ赴いても何一つ取り上げられないと説得に努めた。同時に、すでに徒党を結んで動き出した以上「願ケ条之内一品弐品も御用捨」の上、頭取は仕置等厳罰に処する必要があることなど、国元としての方針を定めた。その後のことは不明だが、このような藩の厳しい姿勢のためか、結局、江戸出訴は行われないまま終わったようである。
 鯖江藩の財政困難はそれ以後も続いたが、十五年には御用金賦課に反対した大庄屋今立郡大屋組支配下二七か村の庄屋たちが藩庁へ押しかけた。これに対し、藩は彼等の行動を「徒党之仕方」と決めつけ処分した。ただし、農繁期であることから、鬮取で今立郡金谷村・平林村・桧尾谷村・八石村・轟井村の各庄屋五人を選んで牢舎とし、彼等と一緒に願書を出した大庄屋には逼塞を命じた程度で終わり、それも六月十日までには許された。
 以上のように元禄から享保期の百姓一揆に共通するのは、幕府による領主支配の再編成が行われ、各領主がそれぞれ体制の確立を図る過程で起こっていることである。各藩とも年貢はもちろん、あらゆる方法で百姓に過重負担をかけたことが原因であった。彼等は多く「惣百姓」の名のもとに行動したが、実際には代表が中心となり、江戸の藩主に訴訟する越訴行動を重視した。結果的には勝山藩のように成功したものから、大野藩のように厳しい処分をもたらしたもの、鯖江藩享保六年のときのように不発に終わったものなど様々である。また、代表中心で一部の者が主導したため、丸岡藩の場合のように必ずしも惣百姓が十分に意志を確認して行ったとは言いがたいものもあったのである。



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