目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    二 百姓一揆の発生
      奥越の元禄一揆
 承応二年二月十三日、幕府領福井藩預所であった大野郡新在家村の庄屋と長百姓二人、計三人が小舟渡河原で磔刑となった。理由は彼等が代官とその手代へ「無実之事」を申しかけ、幕府の役人へも訴えた頭取だからという。彼等の三人の男の子供も梟首されたとあり、残酷な処置であったことが伝えられている(「家譜」)。

表125 勝山藩・大野藩の一揆の内容

表125 勝山藩・大野藩の一揆の内容
 さて、元禄十年代、越前には三件の一揆があったが、うち二件は大野郡で起こったもので、越前で初めての本格的な惣百姓一揆であった。その一つは十年春勝山藩領、他は十二年冬大野藩領のもので、内容を整理すると表125のようになる。小笠原氏・土井氏ともに入部して間がなく、共に藩支配体制の確立期に起こっており、隣接した地域にあって発生時期が二年間も隔たっていないこと、惣百姓願として江戸藩主へ越訴を行っていること、要求も負担の過重による百姓困窮を具体的にあげるなど、多くの点で共通している。ただし、願書が残されていないため、要求内容は勝山藩の一揆は藩の村方への回答一一か条(比良野八郎右ヱ門家文書 資7)、町方への回答七か条(松屋文書資7)、大野藩の一揆は藩の吟味記録と回答五か条(土井家文書)によってしかわからない。
 元禄十年の勝山藩の場合は、江戸へ向かった代表を支援するため百姓たちが村を退いたとの記録があり(『平泉寺文書』)、藩に強烈な衝撃を与えた行動であった。そのため藩はほぼ要求を認め、関係者の処罰もできなかった。このとき年貢を定免制とし、納入法も年内七割、翌年六月までに残り三割とすることが確認されたが、この納入法はその後廃藩まで踏襲された。その意味でこの百姓一揆は、勝山藩政にとって決定的な意義をもつものであった。
 元禄十二年の大野藩の一揆は、勝山藩の一揆に触発されて計画された可能性が強い。代表約三〇人が十二月八日晩、江戸へ向かうといって大野を発ち、それから二十日過ぎまでは足羽郡浅水宿、南条郡今庄宿などに滞在、一時は大野藩領足羽郡大窪村まで戻り、その後近江木之本に留まったりして、藩の代官や郷組頭と交渉を重ねた。しかし、全要求項目の実現と救米二〇〇〇俵以上を要求したため、決裂して江戸へ向かったのであった。
 江戸の大野藩邸での吟味は厳しく、百姓側の要求は容易に認められなかった。一つには「惣百姓願」の要求としながらも、実際には領内惣百姓を結集していないことを藩側が見抜いていたからであった。丹生郡の西方領や大野郡羽生谷・芦見谷など約半分の百姓が加わらず、横枕村源右衛門・中野村与惣左衛門等の豪農や郷組頭も入っていなかったことである(花倉家文書)。百姓側は年貢の取立てが苛酷で、勘定奉行や代官は「百姓を敵の様ニ御責潰し被成」と非難し、藩主の温情に訴えようとしたが、聞き届けられなかった。結果は、土井氏入封以前の古未進が半分用捨となったことと、ねまり駄賃の免除、および石代・小役米共両替値段が町相場六〇匁に固定されたことだけであった。救米は五〇〇俵に削られてしまった。しかも八月末、三人が死罪、四四人が追放となるなど、百姓側には冷酷な処分が下された(横田家文書 資7)。処分されたのは訴訟の頭取と目された人々で、死罪の中には犬山村庄屋や中丁村の目見百姓も含まれていた。小百姓で重い処分とされた者はいなかった(花倉家文書)。
 このように奥越にほとんど連続して起こった二つの一揆は、原因が類似しており、形態や要求内容も多くの点で共通していた。主導したのは大野藩領の場合にみられるように庄屋層と思われる。ただし同藩の一揆は一揆側・藩側ともに勝山藩領の場合を学びながら、農民層の結集の弱さと藩のそれを見抜いた対応の差が結果に現れたといえる。



目次へ  前ページへ  次ページへ