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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    二 百姓一揆の発生
      米ノ浦逃散
写真95 米ノ浦庄屋欠落防止請状

写真95 米ノ浦庄屋欠落防止請状

 正保元年(一六四四)五月、福井藩領丹生郡米ノ浦で庄屋一人を残し村人一〇六人が突然行方不明となった。やがて越後新潟へ逃散したことが判明し、福井藩は翌二年五月二十二日に彼等を連れ戻した。しかし、頭取の市兵衛・六蔵・孫市の姿が見えず、やむなく兵四郎と次兵衛の二人を入牢させたという(「家譜」)。この件に関して厨浦与兵衛と高佐浦茂兵衛の二人が福井藩の奉行へ提出した「請状」(玉村文書)に、もし庄屋の彦左衛門も欠落した場合は責任をもって五日以内に探し出すと記している。庄屋も逃散の可能性があったのである。
 福井藩は早くから「欠落」行為を禁じていた。寛永九年三月十九日「今泉浦五人組連判状」(西野次郎兵衛家文書 資6)の前書きには、「かけ落」人を五人組の責任で探し戻すようにとの条項がみえている。米ノ浦の場合、以前から「欠落」の兆候があったらしく、寛永十四年の春、村方騒動に際して同浦惣代の年寄一〇人が百姓の欠落防止を誓約しており(本節第一項)、同二十年の五人組請書等にも同様の誓約がみえる(玉村文書)。それにもかかわらず、逃散が実行されたのであった。
 寛永十年、福井藩は「欠落」を実行した場合、本人の家はもちろん、村全体に厳しい過料銀を課す規定を設けた。ところが、過料銀のために「村つふれ(潰)」となる事態が起こり、やむなく過料銀の徴収は見合わせていた。そこへ米ノ浦の逃散が起こったのである。そこで正保二年十一月二日、次のように過料銀規定(「家譜」)を改め、「欠落」防止を図ろうとした。すなわち、元の宿主銀一枚、向こう三軒両隣各銀二〇匁、村庄屋・同長百姓各一〇匁、村小百姓と寺各五匁、後家・孀各二匁という内容で、寛永十年と比べれば半額となっていた。ただし、本人の家と隣近所に重くし、村百姓にも負担させている点は同じで、村全体に相互監視と連帯責任を負わせ「欠落」の防止を図ったのであった。この効果は明白でないが、ともあれ福井藩領内ではこれ以後村あげての逃散は起こらなかった。
 



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