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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    二 百姓一揆の発生
      一揆の形態と件数
 百姓一揆は一般に領主への合法的な訴願行動があり、それが実現されない場合に計画・実行された。その形態は、訴願のみの集団的行動から打毀しをともなうものまで多様で、逃散・愁訴・越訴・強訴等があった。逃散は、田畑耕作を放棄し村を集団的に「欠落」することである。愁訴・逃散は、他と比較すれば行動が消極的にみえるが、当時は効果ある方法であった。越訴は、順序を越えて藩主や幕府老中等の上級権力者へ直接訴えるものである。強訴は、秩序や法令を越えて集団の威力で要求を認めさせようとするもので、怒りを有力な豪商や大庄屋などにぶつけ、その家・蔵等を打毀すことがあった。このような激しい実力行使を通じて、領主への訴願を認めさせる百姓一揆が中期以降多発した。この外、都市では下層民が米騒動等を起こして豪商などを襲う打毀しが頻発するようになった。

表123 年次別・形態別百姓一揆発生件数

表123 年次別・形態別百姓一揆発生件数


表124 藩領別百姓一揆

表124 藩領別百姓一揆

 越前・若狭で発生した江戸前期から明治十年(一八七七)までの百姓一揆の件数は表123・表124のとおりで、計六二件を数える。十七世紀五件、十八世紀三一件、十九世紀二六件となり、十八世紀半ばから十九世紀前半にかけて多発した。年次別では一八二〇年代からの二〇年間が一四件と最も多いが、これには天保飢饉がこの期間に発生したことが影響している。なお、飢饉中の天保七年(一八三六)、発生数と時期の関係は八年頃には各地で貧民による不穏な集団的ねだり行為があったが、これらを正確には一件一件数えていない。全体として全国的な傾向と一致する。全国では宝暦から天明(一七八一〜八九)期が大きなピーク時を形成し、幕藩体制の変化をみる一つの指標となっているが、同じことをここでも読みとることができる。ただし、全国的に最も高揚する幕末期に越前・若狭では減少する。その理由はこの時期の越前・若狭の歴史の展開と関係があるであろう。
 地域的には都市・平野部に多く、山間僻地ではあまり起こっていない。支配別には福井藩領が一六件と最も多く、これに次ぐのが勝山藩領の一〇件、幕府領の九件である(表124)。勝山藩領の一揆は、元禄四年小笠原氏が二万二七七七石で入部して以来のものであり、石高で比較すると他領とは抜きん出ている。小浜藩領では明和七年以降の六件のみである。このうち二件は敦賀で発生しており、若狭に限れば越前より極端に少ないことになる。なお、代表越訴として若狭の松木長操のことがよく知られているが、これに関しては事実を確認できないことから(『通史編3』序章)、この表には数えていない。



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