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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    二 百姓一揆の発生
      傘連判状
写真94 若猪野村傘連判状

写真94 若猪野村傘連判状

 百姓一揆を組織するとき、参加者が意志確認をめざして連判状を作成することがあり、その行為として「一味連判」や「一列」の用語がよくみられる。「一味連判」は徒党行動に走る前の団結行為であり、領主側はその目的をもって連判することを厳禁した。元禄十年(一六九七)八月、幕府領坂井郡三六か村の百姓が連判をもって組頭へ夫米赦免を願い出てきたことに対し、組頭三人は「大勢連判之儀兼而御法度」とこれを制しようとしている(小島武郎家文書 資4)。
 連判状の一種に「傘連判状」がある。これは署名人の名が放射状に円く書かれ、形が傘に似ていることによっている。署名者の序列がわからないことから、隣村との出入や村方騒動、百姓一揆に際して作成されることが多かった。大野郡若猪野村が隣村との境界出入に際して作成した、享保十七年(一七三二)十月の傘連判状は越前に残存する早い例である。村方騒動では、文政九年(一八二六)の足羽郡今市村のものが知られ(片岡五郎兵衛家文書 資3)、百姓一揆関係では宝暦六年正月の本保騒動(『国事叢記』)や明和五年(一七六八)十二月の南条郡今泉浦打毀しに際して傘連判状を作成したとの記録がある(西野次郎兵衛家文書)。少し性格が異なるが文政十一年七月の勝山一揆では事前に廻状が村々へ廻されたが、これは発頭村を隠すためであろう、村名が傘状に記載されていた(本章第三節)。



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