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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    二 百姓一揆の発生
      一揆と徒党
 百姓一揆とは、百姓が「揆を一つ」にして、すなわち一致団結し、幕藩領主に対して一定の要求をもって越訴や強訴、時には打毀しにまでおよんだ運動をいう。ただし、「一揆」という言葉は、先に述べたように、江戸時代には普通「騒動」と表現される。寛永十四年(一六三七)に起こった島原の乱を境として、一般に「一揆」という表現は用いられなくなるのである。
 越前に残る史料でみると、江戸前期には次のような用例がみられる。寛永五年、敦賀郡大比田浦と南条郡大谷浦との山論のとき、大比田浦の百姓約三〇〇人がそれぞれ刀・脇差や熊手・棒を持って実力行使を行い、これを大谷浦が「いつきじたて(一揆仕立)」と非難した(向山治郎右ヱ門家文書 資6)。寛文十二年(一六七二)大野郡坂谷郷における山論において訴訟側は、相手方が一〇〇〇人ばかりも棒・杖・槍をもって押し寄せたことを、「か様成らうせき(狼藉)千万誠ニいつき同前之仕合」と言っている(経岩治郎兵衛家文書 資7)。いずれも武器を持ち戦闘につながる争いを「一揆」と呼び、これを批判的に使用していることがわかる。幕府が「一揆」を反乱として厳しく弾圧し、同時に百姓・町人が戦闘用の武器を所持することを禁止したからである。
 この結果、武士であれ、百姓・町人であれ、一般に反社会的・反権力的な集団行動は「徒党」と表現されるようになった。もちろん、幕府・諸大名等はこれを厳しく取り締り、弾圧しようとした。徒党禁止令の早い例は、小浜藩の寛永十一年十一月十五日「定書」(山本宗右衛門家文書)にみえ、早くも翌年十一月敦賀郡「大比田浦五人組請状」(中山正彌家文書)には「徒党を結神水ヲ給候儀堅御法度」とある。福井藩では承応二年(一六五三)の「諸士定」(「家譜」)に家臣団への規定としてみられ、貞享四年(一六八七)「領分在々目録」には「何事ニよらす一味神水之儀ハいふに不及、惣而徒党かましき事一切停止」と見える。
写真93 「鰹山百姓騒動記」

写真93 「鰹山百姓騒動記」

 もっとも、一揆の用語が中期以降完全に消えたわけではない。文化八年(一八一一)の勝山大杉沢騒動を扱った「鰹山百姓騒動記」(松井家文書)では、この騒動を非難して「一揆反逆人ともなり」と記している。なお、これには次の一節があって注目される。
老人のもの(者)とも申けるは、むかし(昔)よりミの虫といふ事所々に度々おこ(起)りしが、なんそ上・無理のけんち(検地)にても入らるゝか、又町方ニ諸色高直ニ商ひをするか、これらの事を憤りて皆々徒党をして上へ願をとゝ(届)けんがためニ、みの虫おこるとハきゝ(聞)及ん(ひカ)たり、此度の一揆ハケ様の事と違ひ願ひの趣意なく、非ぎ非徳之ふるまひ(振舞)、それにミの虫といふは昼内に出るものなり、昼ハ引夜出て城下をあら(荒)すハ狼藉悪党盗そく(賊)の類ひなり、
 「ミの虫」は「蓑虫」のことで、越前ではこの用語は宝暦六年(一七五六)の本保騒動でみられ、以後百姓一揆をこのように表現することが一般的となった。寛延元年(一七四八)の福井藩札所騒動の時には、「綴虫」(『越藩史略』)と呼ばれた例もあるが、「蓑虫」の用語は若狭でも用いられ、北陸地方に広がっている言葉である。雨具・防寒具の「蓑」に身を包む一揆のスタイルとしてこの呼称が定着したらしい。問題は、この史料で「ミの虫」を百姓一揆の百姓と同義に扱いつつ、「一揆」とは異なるとみなしていることである。「非ぎ非徳」の振舞いは「一揆」とみなし否定するが、百姓一揆としての「蓑虫」の出現には理解を示している。その意味で「蓑虫」、すなわち百姓一揆は一定の社会的な理解を得たものだったのである。



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