もう一例あげると、同十五年四月十五日、今立郡東角間村の兵四郎が同村の有力百姓赤谷へ詫状を提出した。兵四郎が赤谷へ「無理成儀」を申しかけ、「家ニ火ヲ付やミ打ニ」するとまで悪口を言ったことが代官へ伝わり、成敗となるところを角間郷七か村の庄屋衆の「詫言」によって命を助けられたため、彼等への感謝と今後の身の慎みを誓約したものである。これには同村の小百姓たちも連署していた(赤谷吉左衛門家文書)。赤谷は太閤検地に際して一反八畝六歩の除地を許され、一六石余を保有する村内きっての有力百姓で、旧来の土豪的な威勢をもつ赤谷と小百姓との間には、この頃何かと対立が起こっていたのである。
このように前期の村方騒動は多くが旧来からの特権や権益、諸負担をめぐるもので、旧土豪層や庄屋・刀 と、年寄層または小百姓との間で争われた。早くは元和二年(一六一六)足羽郡二上村の源内と惣百姓との山論があり(加藤源内家文書 資3)、万治元年(一六五八)今立郡下新庄村の庄屋特権にかかわる居屋敷争論(福岡平左衛門家文書 資5)、寛文七年(一六六七)大野郡朝日村の山論(朝日助左衛門家文書 資7)、同年丹生郡小丹生浦刀 山等の争論(刀 茂兵衛家文書 資3)なども同種のものといえる。もっとも本百姓体制が定着してくる十七世紀後半以降、このような村方騒動は少なくなっていく。 |