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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    一 前・中期の村方騒動
      村方騒動の構造
 越前・若狭においても、村方騒動は江戸期を通じて展開された。全体として後述の百姓一揆と同様に前期に少なく、十八世紀後半から増加して十九世紀前半に多くみられる。これらは主に次のような対立関係から起こった。村役人・頭百姓・大高持←→小百姓・小高持・無高(水呑)小百姓・小高持・無高などは小前、対する頭百姓・大高持は大前と呼ばれることがあり、それは江戸後期に入って目立つようになる。一般的には村役人・頭百姓に対する小百姓の対立として現れることが多く、庄屋や頭百姓の特権に反対し、村役人の交代、時には村内での組分かれを要求することがある。中期以降は大高持と小高持・無高という、田畑を多く保有する者と持たない者との対抗も増加し、地主・小作関係から騒動にいたる場合もある。また、これらの要素を含みつつ、独自の性格をもつ対立もあった。中世の土豪的な系譜をもつ山林地主や浦方の刀外字などと村人、あるいは独自の下人・譜代との争い、あるいは街道筋の村で主に宿駅に関わる問題を中心として発生した宿問屋と村百姓の争いなどである。
 この外に、組頭(大庄屋)と支配下村々百姓、本村と枝村の対立による騒動なども起こった。前者は組頭が支配する組下の村々が、組頭の指示する郷盛に異議を唱えたり、権力的な指図に抵抗するもので、一村の範囲を越えた広域的なものである。後者は本村の枝村に対する不公平な扱いへの不満から起こり、枝村が独立を求める場合もあった。さらに中期以降、農村の小商品生産が発展する中で、新興の百姓が経営の拡大等を求めることから起こる騒動があり、後期には各地でみられるようになる。もちろん、これら以外の対立関係も考えられ、多くの要素が複雑にからみあって騒動が発生する場合も少なくなかった。後期には、村の若者が「若連中」としてまとまり、騒動の発端を開くことも散見されるようになる。以上のようにして多数発生した村方騒動のうち、ここでは前・中期に限って例示することとする。
 なお、ここにあげた小百姓は、一般に高を保有し年貢を負担する百姓のことで、庄屋に対応する言葉である。それは慶長七年(一六〇二)二月二十四日付「南条郡大谷浦年貢皆済状」(向山治郎右ヱ門家文書 資6)末尾に、代官下代が「肝煎小百性立合算用」を行ったとあることや、寛永元年(一六二四)八月、福井藩主松平忠昌が入国直後に代官中に宛てた「定」(「家譜」)に、「公儀之入用」を庄屋が集める時、庄屋に対して「小百性」に「申分」があれば聞き届けること、などといった条文があることから明らかである。もっとも、村方騒動を通してみると、初期には庄屋等の村役人や年寄層を除く高持、それ以後は村役人を除く一般の高持百姓を小百姓と呼んだ場合が多い。すなわち、前・中期の村方騒動は高持である小百姓が中心となり、各地で引き起こされたのであった。



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