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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    一 前・中期の村方騒動
      「騒動」の時代
 江戸時代は幕藩体制のもと、一定の「平和」が実現された時代であるが、一方で百姓は厳しい支配を受け、年貢諸役を負担させられ、困難な生活を余儀なくされた。そのため年貢の減免やその他諸負担の軽減による村の存続、あるいは農産物の流通統制の緩和等を求める運動が広く展開された。そのような中で、支配の秩序や枠組みを越えて強く訴訟したり、集団的な実力行使に及んだものを百姓一揆という。百姓一揆は全国では三〇〇〇件を超えるといわれ、越前・若狭でも後述のように多数発生した。
 ところで、農村支配の基本的な単位は村であったが、そこでは庄屋を中心とした上層高持百姓による年貢や村盛の算用、村運営が行われ、これに小高持や水呑層が反発して、生活の安定と村の民主的運営を求める要求がほとんどの村々で起こった。このような動きを村方騒動と呼ぶ。
 このように江戸時代には全国各地で百姓一揆が起こり、いたる所で村方騒動が展開された。その結果、これらは幕藩体制を大きくその基底からゆり動かし、やがて崩壊に導く大きな役割を果たしたのであった。
 当時の支配層は集団的な社会的行動を多くの場合「徒党」行為とみなし、普通これらを「騒敷」「騒動ケ間敷」などといった言葉で表現した。そして、それらがとくに大きく秩序や法を越えた場合は「騒動」と呼ぶことが多かった。このため百姓一揆や村方騒動も多くの場合「騒動」と呼ばれた。その意味でこの時代は「騒動の時代」と呼んでよいほどで、このような民衆の運動が多数、大規模に展開したときであった。



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