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 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
     四 災害とその対策
      川浚え
 河川や用水の維持管理について福井藩を例にみてみる。「用水掟書」(杉田定一文書)の中には、江筋には江幅に応じて土揚場を設けること、江縁は両側に三尺ずつあること、江縁には諸木を立ち置いてはならないことなどが決められている。立ち木があると根が差し出し、江幅が埋まってしまい、用水江では水下が水不足に、悪水江では水上の水があふれるからである。
 川岸に生えている柳なども水の流れに支障をもたらすことがあり、伐る必要があった。寛政三年、竹田川筋の上と下の村々が「水行」をめぐって、川縁の柳などの諸木の伐採について出入となった。この時、福井藩は幕府に「竹田川柳伐方」の伺書を提出しており、それに対して川の内にある柳などは根から伐ること、川縁の諸木は「壱弐本並」に根際から二尺ほどを残し伐り詰めることが指示された。川縁の柳や諸木は堤や川縁の土砂が川の中へ欠け落ちないように、また「水当テ」を防ぐ役割をもつものであるとされ、そのためには柳の根がよく張り、土際の枝や葉が繁るようにしておく必要があった。万一、柳の木などの手入れが悪く伸びたならば、根の際から二尺程を残して伐るように指示している(高嶋善彦家文書、「家譜」)。
 福井藩は享和二年(一八〇二)・文化二年・天保十三年に、出水を防ぐため川筋の柳伐を命じている(「命令之部」松平文庫)。天保十三年の時は、川筋の柳伐を中絶したため水の流れが悪くなっている現状を指摘している。このほか、同六年には「川中ニ生立候竹木、附寄地」などが水の流れを妨げているのでこれを取り払うよう命じた(同前)。
 用水普請はもともとは村や井組で人足を出して行うことになっていたが、その後加勢人足が出されることになった。しかし、正徳三年(一七一三)には、藩は近年村々の用水にともなう加勢人足が増し出費がかさむようになったので、以前のように村普請にするように命じ、差し支えがある場合は郡役所へ申し出ることとした。その後、寛政元年の大水で用水路や道橋などの損所が多くでたため加勢人足は増え、同六年には用水方の加勢人足は一万五〇〇〇人と定められた。天保元年には、用水小破の際の加勢人足は廃止され、各村の「出捨り」で普請することとなった。大破の時は用水奉行の見分のもと普請が申し付けられた(「命令之部」松平文庫)。
 川除・用水普請人足が多く必要な時は「四郡割」によって調達されたので、直接利益を受けない村々も負担することとなった。例えば、享保八年四月十一日から五月二十日にかけて実施された小舟渡用水普請では、幕府領二か村負担分を除いた人足代を上領・中領・下領・川北領で分けて負担している(赤井富士夫家文書)。遠方の村々が出さなくてはならない人足は普請所の近くの村々で雇って出したようで、元文三年には「小舟渡用水普請人足ニ今庄辺・相勤殊之外百姓共痛ニ成申候由、遠方・罷越日手間を費し耕作之時障りニ成候ニ付、……川除御普請所近村ニ而雇為相勤候様」に組頭が取り扱うように命じられた(「命令之部」松平文庫)。
 弘化三年の四郡割普請場所には、用排水では粟田部鞍谷川用水池・徳光用水・江守九ケ村用水や河合春近用水、小幡沖悪水落などがあった。用水以外では、大谷浦・四ケ浦・宿米ケ脇の波除、松岡の相生橋などがあり、海岸辺における大波による被害の復興にも四郡割人足による普請がなされた(「命令之部」松平文庫)。



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