江戸中期には町火消が組織化されるようになる。勝山町では、寛延二年にはすでに郡町火消組・袋田町火消組・後町火消組の三組が組織されていた。各町火消組には町年寄・庄屋等の下に火桶組二〇人・羽織組一〇人・火消長杓組三人がおり、階子二挺・縄階子一挺・長杓三、四本が備えられていた。火桶組・羽織組共に火桶を持ち、草鎌をさし、町年寄の指図によって働いた。天明六年四月の火消組改によると、各町火消組には飛組(一〇人)・階子組(五人)二組・籏挑灯水篭持(五人)・水篭組(五〇人から五二人)・羽織組(一〇人)などがあり、約一二〇人で構成されている(福井大学附属図書館文書)。火消組は弘化二年に青・黄・赤・白・黒の五組となり、各組は一三〇人から一四〇人で構成され、それぞれに鳶が一〇人から一二人いた(松屋文書)。
府中では明和六年(一七六九)五月の火事後、各町内に「町火消党」が合わせて一六九人で組織され、「お頼申火消組」と呼ばれた(『武生市史』概説篇)。
福井城下には「御頼火消」とよばれた町火消が町組ごとに一一組あり、一組は五〇人で構成されていた。これらの町火消は、御城下火消に任じられた高知席の指図を受けた(「高知席御城下火消勤規則」)。成立の時期は明らかではないが、享保三年三月付で「町火消余計有之間、御目付も一両組受取火為防候様、……京町組五十人斗有之茶筌竹・水篭為持分ニ差出、御目付中差図を受候様彦右衛門・組頭へ申付候由、其外ハ町与力ヘ壱組ツゝ付候而為働候様可仕」とあり、この頃には何組かは成立していたであろう。また、同九年五月には新たに御城下火消に任じられた酒井与三左衛門が病気を理由に出火のさい出馬できないことを申し出たことに対する、家老からの返答の中に「町火消も指添申事ニ候間家来斗被指出」とあり、町火消が御城下火消の支配のもと活動したことが知られる(「御家老中御用留抜集」二)。 |

写真91 大野町の纒
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