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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    一 前・中期の村方騒動
      小百姓と割法
 村では年貢納入とともに独自に郷盛や村盛の割賦と徴収を行ったが、一般に領主の年貢諸役と郷盛・村盛が複雑にからみあい、算用に関して明確に分離していないところが多かった。このため、庄屋など村役人や有力高持たちは割方や算用法を有利にしようとし、小百姓層と対立することがしばしば起こった。福井藩は享保十六年(一七三一)「村々之内庄屋ニ悪敷者有之ニ付小百姓潰候趣」(「家譜」)があるとし、それは村盛割方の詳細を小百姓に知らせず庄屋独断で行うことも原因であると指摘している。
 年貢に付随する夫米などや郷盛・村盛の割方が村に任されていたことも、騒動の基本的な要因であった。一般に、支配関係は百姓個々の持高に基づく高割、村独自のものは家を基準とする家割、まれには人別割もあった。ところが、小百姓層の経済的変動や社会の変化とともに負担の公平、あるいは軽減を主張し、家割・人別割のものも高割とするよう求める争論が増え、村方騒動となったのである。
 幕府領では、代官が正徳二年(一七一二)に諸割法をすべて高割とするよう指示した。しかし、今立郡の村々では古来からの村法を理由に従来どおりとする所が多かった。そこで同五年、池田郷月ケ瀬村では小百姓一〇人が家割にかかる負担が大きく「段々困窮仕潰果」てるので高割に命じてほしいと代官所へ訴えた。これに対して五人の大高持百姓は反論した。困窮の原因は数年来の悪作であり、また三年前に村納得証文を結んでいる。山村はどこも同じで「たとい里中之百姓ニ而も諸色高割と申義ハ承及不申」とはねつけたのである(上島孝治家文書 資6)。小百姓は領主の布達を根拠に割方の変更を迫り、大高持層は旧来からの村法を盾にしたわけで、小百姓の要求は容易には実現されなかった。
 池田郷水海村も古法を守り、高割を認めなかった村であるが、少し異なる動きがあった。正徳四年六月、引高の割方をめぐり一人の百姓が村庄屋等を不平等の扱いをしていると訴えた。彼は翌年の五人組帳によると六一人中八番目くらいの二一石余を持つ高持であったが、割方が小百姓に不利で、庄屋・長百姓はその威光をかさに勝手であると主張したのである。これに小百姓方が同調したと思われ、同五年正月二十日、六三人の百姓が連署した「村中納得証文」を定めた。引高は内検帳によるものとし、流地の持主へは与内するという内容である。享保九年には村内検のための諸雑用・人足等の割方でもめた。この時、高半家半が村法だが、今度だけは高割にすることを惣百姓七六人で確認した(鵜甘神社原神主家文書)。現実に百姓の持高が変化する中で、それに見合った割方が求められ、固定的な高半家半の基準が少しずつ変えられていったのである。
 各地でも諸負担高割要求が高まっていった。享保十七年十一月、郡上藩領大野郡東山村では三人の小高持が大高持と「人足郷盛」をめぐって争った。三人が大庄屋に宛てた願書(斎藤孫左衛門家文書)によると、同村では百姓九軒のうち庄屋役を除く八軒で郷盛人足を家割に負担していた。これでは一三〇石余を持つ者と三〇石余の者が同じ負担となり小高者は困窮が進むと訴え、今後は高に八分、家に二分の割方となるよう命じてほしいと主張したのである。同二十年、池田郷西角間村では諸役面割(人別割)を高割とするようにとの要求が実現した。村家役・諸人足を除くほとんどすべての郷盛・村盛を高割と改め、夫米も高割にしたのである(飯田忠光家文書 資6)。寛延元年(一七四八)鯖江藩領今立郡別印村では、諸雑用割方について大高持五人と小百姓一一人が対立し、八月二十五日、近村から扱い人が出てようやくまとまった。その内容は「諸雑用・諸人足・庄屋給」はこれまでどおり家割とするが、夫米は高半家半から高割に改める、同月二日に決着した近村との山論費用も高割とするというものであった(内田秀数家文書)。



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