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 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
     四 災害とその対策
      福井藩の社倉と義免
 天保二年九月、藩は凶作に備えて町と「三郡」へそれぞれ籾三〇〇俵ずつを渡し、「社倉躰之趣法」を立てるとともに(「命令之部」松平文庫)、大庄屋を初めとして村々の頭立った者へ米・銭・雑穀などを差出し、これに加入するように命じた(浜野源三郎家文書)。同年十月、南条郡鯖波村では村人二七人が合わせて籾二斗と稗三斗を囲い置き、丹生郡宿浦は浦方であるため籾がないので一一人が銀四五匁二分を出した(石倉家文書、宿浦区有文書)。表122は同年十一月の領内の社倉集め高である。さらに、翌三年閏十一月には町と「四郡」へそれぞれ社倉籾一〇〇俵ずつ合わせて五〇〇俵を与えた(「命令之部」松平文庫)。

表122 村々社倉集め高

表122 村々社倉集め高
写真89 高佐浦の社倉(「海岸図面」)

写真89 高佐浦の社倉(「海岸図面」)

 天保二年から積み立て置かれていた社倉籾は、四年の不作をうけて、五年二月難儀人へ与えられた。宿浦では二年から四年までの三年間に積み立てられた銀一一七匁五分二厘が二九軒に、南条郡中平吹村では社倉籾二石九斗七升五合が村の困窮者に与えられた(宿浦区有文書、佐治覚右衛門家文書)。その後も社倉は続けられ、今立郡押田村では六年・九年にわずかではあるが、籾四升をそれぞれ積み立てている(宇野名左衛門家文書)。しかし、「社倉躰之儀」は七年からの飢饉には十分に機能せず、十二年に改めて「興立之儀」が仰せ出され、有志による囲い置きが命じられた。さらに十三年十月、前述したように幕府からの指示で村々において高一〇〇石につき籾二俵を囲い置くように命じた(「命令之部」松平文庫)。これをうけて押田村では九人の村人が籾五俵八升(二石三斗六升)を囲い、同年十二月には前年分の籾四升と合わせて籾五俵一斗二升となった(宇野名左衛門家文書)。
 次いで弘化元年(一八四四)十一月に「義免御囲籾御趣法」が定められた。この義免法は高一〇〇石につき籾二俵が藩から貸し与えられ、これに加えて各村では高一〇〇石につき籾二俵を囲い置き、毎年合わせて籾四俵を積み増していくものであった。この囲籾は、同二年以降各村が囲い置く分については行われないなど「御趣法」どおりには実施されなかった。このため、安政二年(一八五五)になっても「未タ御目論見之御趣法通全相遂兼」ねており、同年の義免による囲籾は領内で一万四八六八俵余であった。また、弘化四年には藩は町方に対する手当として籾八〇〇俵を囲い置いた(「家譜」)。
 南条郡鯖波村では、弘化元年の義免法により村高四二五石余に対して籾八俵半が年貢から差し引かれて藩から貸し与えられ、村預りとなった。また、百姓から取り立て分として籾八俵半が囲い置かれた。翌二年以降は百姓からの取り立て分の籾八俵半は免除された。同四年には近くの脇本村に藩の指示で籾蔵が建てられ、この蔵で籾が囲われた。
 安政二年には脇本の蔵で囲い置かれていた鯖波村の籾二一俵が藩から村へ渡され、秋に新籾で再び籾二一俵(元籾と称した)を村で囲い置くことになり、同時に元籾二一俵の三割にあたる六俵一斗三升八合が増囲籾となり、合わせて籾二七俵余が村で囲い置かれた。この後も増籾がなされ、万延元年(一八六〇)には四三俵余となったが、翌二年正月にはこのうち一〇俵半が極難渋者へ与えられたので減少した。この年以後も増籾がなされ、慶応三年(一八六七)には四六俵となった。この囲籾を鯖波村では、社倉籾あるいは義倉籾とよんでいる(石倉家文書)。



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