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 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
     四 災害とその対策
      防火
 安永四年と九年に大火があった大野町の防火対策を「用留」(斎藤寿々子家文書)からみてみよう。大野藩は防火のため、町方へ夜廻りを命じている。安永三年一月には、町年寄や御免地庄屋・組頭へ「天気能風吹」く夜は夜更けまで見廻るように、同五年一月にも風が吹く夜に町役へ各町の見廻りを命じた。八年二月には風が激しく吹くので、焚き火は夕方の六ツ時から禁止され、庄屋・組頭は夜明けまで交替で廻るよう命じられた。九年の大火後の三月には庄屋が行う火元廻りについて、風の吹かない日は夜九ツ時(午前零時頃)と昼四ツ時(午前十時頃)、風の吹く日は夜四ツ時(午後十時頃)・七ツ時(午前四時頃)、昼は五ツ時(午前八時頃)・八ツ時(午後二時頃)に廻るように申し付けている。
 町人の夜廻りには立番と風番があり、両方とも風が吹き始める春先から雪が降る頃までの乾燥する時期や風の激しい時に命じられた。藩の役人の夜廻りも実施されており、同五年一月は御先手組六人が半夜交替三人ずつで廻り始めたのに続いて、「火廻り」と「盗賊御廻り」の兼帯役一二人が昼夜に廻り始めている。
 火事に備えて、藩は安永五年四月には町方の板家の屋根へ「天水」を上げるよう命じた。八年七月には風番・立番に対して家一軒一軒へ気をつけて廻るよう命じるとともに、町家へは家の前に水と階子を出すよう指示した。水と階子はこれまでは春のみに出していたが、この年から盆過ぎ頃からも出すこととなった。
 例年三、四月に「火所改」が実施された。安永六年の火所改では「大火後故用心悪敷家居仕候て罷有候者共多、気遣ニ候」と述べており、四年の大火後の町家再建がなされたため入念に改が実施されたことがうかがえる。この火所改は元文五年(一七四〇)には「火処囲炉裏改」として小頭と町年寄・月行事によって実施されている。天明四年(一七八四)には「囲炉裏改」、同五年には「竃改」として行われた。「古格大概」(須田悦生家文書)には小浜町における竃について次のように書かれている。竃は壁から三寸離して設置するように命じられていたが、町の家々は狭いため壁にくっつけてある場合が多いので、寛保元年(一七四一)六月に町の宿老が各家を残らず見分して規定通りに改めさせた。これ以後、毎年三月中にこの見分がなされた。
 延焼を防ぐため火除地を作ることがあった(第三章第一節)。大野町では安永四年の大火後、火元の野口村と一番上町や二番上町などの一部を火除地とするため藩は「引地」を命じた。しかし翌五年正月には町人に対してこれまでの屋敷に家を建てることを認めており、この計画は完全には実行されなかった。その後、文政五年(一八二二)三月の大火後再びこの計画が持ち上がり、翌年替地が実施された(土井家文書)。このほか町方の家の多くは萱葺きで延焼しやすかったため、これを板屋にすることが申し付けられている。安永の大火後、寛政元年四月にも合わせて一〇一一竃を焼く大火が起こっており、この後も依然として萱葺きであるため同十年正月には、家の建替えでは板屋にすることが再び命じられた(宮澤秀和家文書 資7)。



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