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 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
     四 災害とその対策
      囲米・囲籾
 幕府は凶年の備えとして、諸大名に対して米穀を貯えるよう命じており、天和三年(一六八三)に「米穀等少々被貯置」ることを、享保十五年(一七三〇)に「置籾」を命じた(『御触書寛保集成』)。享保十七年十二月、幕府領福井藩預所である坂井郡野中組一八か村では、合わせて一一八〇石六斗の置籾が各村の蔵で囲い置かれている(小島武郎家文書)。以下、福井藩における囲米や囲籾について「家譜」からみてみよう。
 宝暦三年(一七五三)幕府が諸藩に高一万石につき籾一〇〇〇俵を貯えるよう命じたため、福井藩は三〇万石分として籾三万俵(一万〇五〇〇石)を貯えた。翌四年は前年分を新籾に詰め替え、さらに当年分として新たに籾三万俵を貯えた。五年の囲籾は実施されず、不作によって米価が高値となったため三年に囲った籾を払うように、さらに六年二月には四年に囲った籾を払うよう幕府から命じられた。
 囲籾は以後も実施され、宝暦十年・十一年に籾それぞれ三万俵、安永三年(一七七四)にも籾三万俵が貯えられ、いずれも後に囲籾はやめられた。寛政元年(一七八九)には高一万石につき米五〇石を翌二年から六年までの五年間貯えるよう命じられ、藩は米七五〇〇石(籾で一万五〇〇〇石)を貯えている。
 文化元年(一八〇四)には宝暦・安永の時と同様に囲籾が命じられたため、元年・二年にそれぞれ籾三万俵を貯えた。この籾は同四年に起こった洪水に対する諸入用の手当とすることを幕府に願い出て認められた。七年には再び囲籾が命じられ、七年・八年にそれぞれ米一万五〇〇〇俵を貯えた。天保十二年(一八四一)、非常の備えとして高一万石につき籾一〇〇石を五年間囲い増すよう命じられ、翌十三年から籾三二〇〇石を囲ったが、後述する義免御囲籾の導入によりこれは中止された。



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