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 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
    三 天明・天保の飢饉
      農村と山村の飢饉
 農村の飢饉について鯖江藩領乙坂組を例にみてみよう。天保四年八月、領内に飢人が出始め、藩から稗代が与えられた。翌五年二月には領内の村々と町方に対して救籾一五〇〇俵が与えられ、籾三五〇〇俵が二・四・七月に分けて貸された(福岡平左衛門家文書)。五年正月、乙坂組は困窮者の数が合わせて五五一軒・二三三六人であることを藩に届け出ており、これは組全体の五割にあたる(千秋勝稔家文書)。

表118 乙坂組の人口・家数

表118 乙坂組の人口・家数


表119 田島村の人口

表119 田島村の人口

 天保七年十一月には領内村々の困窮者へ慈悲籾五〇〇俵と金三〇〇両が与えられており、乙坂組では八年正月から八月までの組内の村々における必要な飯米四八一〇俵(一日一人当たり米二合)に対して、その六割にあたる二八六一俵が不足していることを藩に届け出ている。八年正月、乙坂組では組全体の四割近くにあたる四一一軒・一六七三人が飢人となっていた(千秋勝稔家文書)。同年二月、領内の今立・丹生・大野の三郡一二九か村の飢人は九一七〇人に達し、藩からは飢人一人に一日当たり一合ずつの救籾が三〇日分支給された(『間部家文書』)。
 農村での人口の減少はどれほどだったのだろうか。表118には鯖江藩領の乙坂組(一四か村)の人口の推移を示した。天保七、八、九年と連続して減少しており、九年は前年にくらべ七一三人、一六パーセントの減少であった。鯖江藩では例年三月から四月にかけて宗旨・五人組改の役人が各組を廻っており、同九年の減少分は八年春から九年春にかけての死者と考えられる(千秋勝稔家文書)。
 幕府領福井藩預所であった坂井郡田島村の人口の推移を示したのが表119である(「人家増減御改帳」池邑善兵衛家文書)。文政年間の人口は二八〇人前後であったが、天保六年正月改から減少し始め、八年正月には二二三人、九年正月には二一八人となり、両年で約二〇パーセント減少した。同八年正月改の死者数は三七人、七年の出生者はわずか一人であった。
 大野藩の人口について、藩の宗門方の役人が藩に提出した「人数書付」(土井家文書)によると、天保元年は二万八七三〇人であり、その後は五年の二万九〇六二人を除きほぼ二万八六〇〇人台で推移していたが、八年は二万五九五七人、九年は二万三七八〇人となる。天保八、九年の減少が著しく、その合計は四九〇七人となり、七年の人口を一〇〇とすると九年の人口は約八三となる。

表120 長野村の人口

表120 長野村の人口

表121 天保8年(1837)の年齢別死者数

表121 天保8年(1837)の年齢別死者数

 次に、山村の様相をみてみよう。郡上藩領大野郡長野村(村高一四石三斗九升)は穴馬谷の山村である。表120はこの村の宗門帳(古世賀男家文書)から人口の推移を示したものであり、天保九年正月は前年より二一人の減、翌十年もさらに五人の減となっており、八、九年の両年で二二パーセントが減ったことになる。天保年間の死者はこの八、九年が非常に多く、とくに八年の死者は春先から夏にかけての食物不足が原因で四月から八月に集中している。八年の死者を年齢層にわけたのが表121である。六一歳以上の死亡率は五〇パーセント、八年に生まれた四人のうち二人、七年に生まれた二人のうち一人が死んでおり、その死亡率も五〇パーセントである。限られた史料ではあるが、乳幼児と高齢者の死亡率が高いといえる。同郡河合村においては文政元年の人口は一七〇人であったが、天保十二年は一四四人となっている(斎藤甚右衛門家文書)。
 穴馬二一か村は、天保八年春に郡上藩に稗三〇〇俵の拝借を願い出、四月に稗二七〇俵が貸し与えられている。それによると、七年は大凶作で作物は実らず、種を取ることもできず、翌八年春には食物を食べつくし飢人が多く出、「掘根等も掘尽し、給物一切無御座候」という状態であった(古世賀男家文書)。穴馬谷の大谷村では、同八年に時疫が流行し五、六月に六〇人が死亡し、十二月までにその数は合わせて約一〇〇人となり(永瀬忠右衛門家文書)、疫病がこの地でも猛威をふるったことが知られる。また、大野郡河合村でも同八年春以来、「村方一統難病相煩過半病死家潰」れといわれている(斎藤甚右衛門家文書)。
 南条郡瀬戸村でも、天保四年二月三三六人であった人口が同十年には二八二人となり、一六パーセント減少したことが知られる(伊藤助左衛門家文書)。



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