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 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
    三 天明・天保の飢饉
      浦方の飢饉
 丹生郡小樟・大樟浦は文政の初め頃から不漁が続いていた。両浦では天保七年の麦は「半作」となり、収穫した大麦は夏の間に食いつくされていた。米は高値に加えて「在方・米出不申」の状態となり、八月上旬には「他領ノ者へハ売くれ不申」となり両浦の人々は米を買い求めることが出来なかった。秋の黍も虫付となったため収穫できず、食料不足ははなはだしかったという(木下伝右衛門家文書)。
 小樟浦では、十月になると村には大麦や黍は全くなく、人々は飢えにおよび、八年正月二日から六月二十日頃までに村人約六〇〇人のうち三二〇人ほどが死に絶えた(「庄屋歳代記」小樟区有文書)。

表117 大樟補の人口・家数

表117 大樟補の人口・家数

 大樟浦では天保八年正月頃から疫病が流行し、三月から死者が増え始め五月には一〇〇人を数えた。小樟浦においても疫病が流行しており、両浦で七月頃までにおよそ五〇〇人が死んだ(木下伝右衛門家文書)。表117は大樟浦の宗門人別帳(同前)から人数と家数をまとめたものである。天保七年五月から八年五月にかけて、前年の約四五パーセントにあたる一七五人が減少しており、小樟浦とほぼ同じような状況である。
 丹生郡米ノ浦の蓮光寺の過去帳から死者数をみると、文政年間における一年の平均死者数が約一四人であるのに対して、天保八年の一一七人は非常に多く、飢饉によると考えてよいからそのすさまじさがうかがわれよう。この年の死者は二月から増え始め五月が三三人でピークとなり、七月までに死者全体の九割を超える一〇六人が死んでいる(蓮光寺文書)。八年の収穫後米相場は落ち着きを取り戻しており、九月以降の死者の減少につながったのであろう。また、同郡新保浦では天保八年八月、家数五八軒のうち一二軒が絶え、三三六人のうち一五四人(約四六パーセント)が死亡している(「村中死人明家相改御達帳」両林家文書)。このように浦方での飢饉は、人口が半減するほどに多くの死者をだした点に特色がある。



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