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 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
    三 天明・天保の飢饉
      天保期の若狭
 若狭高浜の様子を「永代萬記書」(清常孫兵衛家文書)からみてみる。文政十一年(一八二八)は不作により世間の様子は騒がしく、米のほか諸品が高値となり難儀する人々がでた。天保に入っても不作が続き、同四年には米価の高騰は頂上に達し、小浜や高浜などでは粥施行がなされた。
 七年は越前同様早春から雨が多く、冷夏となり米相場は次第に上がっていった。八月十三日の洪水で田畑は大きな被害を受け、米・麦に限らず物は高値となり町には難渋人があふれた。十月に入ると人々の生活はますます困窮し、物の高値は前代未聞で「百年以来之事」となった。高浜浦町では「余程かつ(飢)江死」ぬ者がでた。藩をはじめとして、町や村では救済がなされたが餓死者を止めることは出来ず、高浜町両浦では八年正月から六月までに五一二人の死者がでた。五月頃からは時疫がはやり始めさらに死者が増えた。小浜町でも「風気」での死者は数多く、「小浜海道ニ而死人数しれ不申」の様子であったという。若狭でも越前同様、飢えと疫病に苦しむ人々の姿をみることが出来る。



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