目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
    三 天明・天保の飢饉
      町での施行
 町での飢饉の様相を「大野町年寄用留」(斎藤寿々子家文書)によりみてみよう。大野町では藩が費用を負担し、毎年十二月と翌年正月に一〇日間ずつ貧人に対する施行が行われていた。しかし、天明四年の春には貧人の数が多いため二月も施行が行われ、合計三〇日間となった。例年の施行には米一〇俵、塩四斗、柴三〇〇束が用いられたが、この施行では米六一俵余、塩六斗、柴四五〇束がそれにあてられた。この施行を受けた人数は延べ二万四八八〇人で、一日平均八三〇人であった。
 天明三年十二月には三番町で、翌年正月には四番町においても飢えに及んだ者が出、藩はそれぞれの町内で救うように庄屋に命じた。大野町では「御用達并町々ニ而相応ニ暮候者」が救う様に申し付けられており、一人に二升七合ずつの救米が彼等から支給された。同三年冬から翌四年春にかけて、町の困窮者や乞食へ、「被仰付之分」として救米四一俵余・籾一斗九升・銀三八匁余、「町々自分施」として米一一二俵余・籾一〇俵余・銀二二八匁余・稗五俵三升が与えられた。
 飢人に対して藩からの稗の貸与も行われた。天明四年閏正月には四番町などから九二人の御救願が出され、藩から町組・下目付が見分に訪れ、一人当たり稗三升が貸し与えられた。その後、町々からの御救願に対して同様に見分がなされ、二六七人に一人当たり稗三升(合計八石一升、代銀三二〇匁余)が特例として貸し与えられた。
 このように大野町では、飢人の救済のために、各町内ごとに重立った商人や町人から救米が出されたほか、藩からの施行や稗の貸与も行われた。しかし、飢饉になると村から町へ流入し食料を乞う者が増え、飢え死にする者がいた。四年四月に二人、五月三人、六月五人、七月一四人、八月三人、九月三人が道端・畑や社地で死亡している。十月には野宿している人々を貧人小屋へ入れている。
 飢えや疫病による人口の減少について勝山を例にとると、天明三年から六年にかけて全体で一一四二人(約一〇パーセント)減少している。勝山三町分は三六五人で、人口は約一二パーセント減少しているが、郷方では七七七人と多いが、人口の減少率は約九パーセントである(表116)。ちなみに、在方がほとんである鯖江藩領の人口は、同四年の二万八七七一人から七年には二万七〇五五人へ、約六パーセント減少している(『間部家文書』)。

表116 勝山の家数と人口

表116 勝山の家数と人口



目次へ  前ページへ  次ページへ