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 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
    三 天明・天保の飢饉
      わら餅と食べ物
 敦賀郡市野々村の権右衛門が著した「天明歳中聞書」(柴田一男家文書)の中に、天明四年正月に小浜城に登城した時に聞かされた「わら(藁)のもち(餅)」の記述がみえる。「御咄ニ江戸外字申参候ハ、わらヲ粉ニして壱升ニ米粉壱合入こね合もちニしてたべ申候」「一向のどへいかぬ者之由御はなし」であった。権右衛門は帰宅後、藁粉一合に米粉一合を入れて餅にして食べてみたが、やはりのどへ入りにくいものであったという。近くの野坂村や櫛林村へも少し送っている。藁餅は同三年九月幕府の令達によるものであり、「越前在ニ而もわらのもちヲくう」とあることから全国に広まっていたと思われる。
 「天明歳中聞書」には「川にはへて有之候もう(藻)、是ヲ取ゆでてあへ物やひたしにしてたべ候」、また難儀人の食べ物として「早春ハ葛、又ほどろ・どくだめ・わらび・ぜんまい・河もう・たわらもう、其外何ニても是迄給候ものハ随分たべる」とあり、食へるものは何でも食った。
 今立郡の五箇の内田家の日記には、天明四年春は葛根をほり、野に草が萌出る頃には「青物草類」を手あたり次第取って食べ、おばこのほか「わらのだんご・松の木皮ノ入粉」などを食べた記事がみられる。また、「誰飢死せんも斗られず、今ハ我身の上か上かと忙シ果申候」と心境が書かれている(内田吉左衛門家文書)。坂井郡上金屋村の村記録には、八〇歳の古老の話として「当年之様成かつめい(渇命)成義無之候」と記されている(土肥孫左衛門家文書)。



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