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 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
    三 天明・天保の飢饉
      飢人の救済
 飢人・難儀人に対する諸藩の救済策を、東鯖江村の「庄屋日記」(窪田家文書)を中心にして鯖江藩を例にみてみよう。
 天明二年十月、藩は領内各組の大庄屋に宛てた達のなかで不作による年貢未進に懸念を示している。翌三年三月各村は飢人の吟味をし、領内人口の約一〇パーセントにあたる二八五六人の救米を願い出た(『間部家文書』)。東鯖江村では水呑六軒合わせて一五人が飢人とされ、四月に「飢米代」として稗代銀が三〇日分下された。飢人一人一日当たり稗一合五勺から四合五勺まで五段階の支給基準があった。また同月に領内へ一三〇〇俵の作食米が貸与された。
 天明四年一月、藩は近年の不作による難儀困窮を理由に領内の村々へ米五〇〇俵(東鯖江村へは二二一人分として三俵三斗七升九合)を与え、これとは別に開作に備え作食米二〇〇〇俵を貸し与えた。また十一月には例年課していた翌年春の高掛御用金二五〇〇両を免除した。同五年二月には領内の各組から計七六〇三人の飢人救願が出され、三月にはこの飢人に二〇日ないし三〇日分の稗代として金二〇〇両、このうち東鯖江村へは三五人・二〇日分として銀四五匁八厘が下された。さらに四月には作食米一〇〇〇俵が貸し与えられた。このように鯖江藩は、飢人の救願に対して救米などの支給と作食米の貸与によって対処していた。
写真87 新保浦の御救・拝借・施行帳

写真87 新保浦の御救・拝借・施行帳

 「飢饉は海から」(『日本国語大辞典』)とも言われるように、不作の年は海流や海水温度の変動によって、漁村においても不漁で飢人が数多く出た。天明三年の冬は、遠敷郡西津村について「西津小松原猟師当年殊之外不猟ニ而難儀飢人多、昼夜共乞食ニ罷出候」(柴田一男家文書)とあり、不漁であったことが知られる。敦賀郡沓浦では、近年の不漁により難渋しているところへ、夏の長雨で「御年貢塩も出来不仕」る状態であった(山本宗右衛門家文書)。丹生郡下海浦・上海浦・宿浦・新保浦へは福井藩から救籾や救銀が出されたほか、大庄屋と村の頭立った百姓による施行がなされている(両林家文書)。



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