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 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
    三 天明・天保の飢饉
      疫病の流行
 飢人が数多く出る中、天明年間は全国的に疫病も流行し、多くの死者がでた。南条郡瀬戸村では、天明四年夏に流行した疫病により五二人が死亡したのに続いて、その後も病人が増え翌五年には病死者の合計は一二五人となった。この頃瀬戸村の家数は一〇六軒、人数は四八八人であり、死者は村全体の二五パーセントにも達したのである(伊藤助左衛門家文書)。
 また、大野郡橋爪村・蓑道村・堂島村では、天明四年正月から九月にかけて一一九人が風病で死亡している(経岩次郎兵衛家文書)。大野町の枝村の金塚村では、同四年五月流行していた「疫疾」のため六、七軒は一家全員が病気となり、このため鵜の飼育が出来ず五羽が死に、残る一四、五軒の病人は合わせて七八人であった(斎藤寿々子家文書)。
 一方三方郡早瀬浦では、天明五年六月に村人二二四人のうち死者三六人、病人一二〇人、無難六八人という状況であり、家数四四軒のうち二四軒から死者が出、そのうち一軒は死に絶え、一家全員が病人の家が一六軒あった(「死人病人之書付」早瀬区有文書)。また、二三軒が「無商売」や「外字不仕」の状態であり生活に困窮する姿がうかがわれる。敦賀郡疋田村でも疫病によって潰家が約二〇軒でき、一四〇人余が死んだという(「酒井家編年史料稿本」)。
 このように、越前・若狭では疫病が流行し、「風びやう(病)ニ而当国村々なん(難)義、其故そん(損)分有之」(土肥孫左衛門家文書)と、各村は天明二年から続く不作と疫病(風病)により疲弊していたといえよう。南条郡奥野々村では、天明三・四年の悪作によって百姓二一人のうち一六人が潰れ、村人一五〇人余のうち四六人が死に絶え、一三人が乞食に出たまま村へは帰らなかった(藤木太兵衛家文書)。
 このため各藩は疫病(風病)をはらうため祈外字を行った。福井城下では天明四年二月頃から「疫疾」が流行したため、三月には「疫疾除ノ御守」が藩から配布された(「橘宗賢伝来年中日録」福井県立図書館文書)。大野藩は同四年四月に祈外字を行い、「御札」を町・在方へ配った(斎藤寿々子家文書)。勝山町でも四年四月に「風神除之御札」が配られた(福井大学附属図書館文書)。小浜藩領内の上瀬宮では四年五月、「諸方疫病流行」につき「鎮疫祭」が行われた(「酒井家編年史料稿本」)。



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