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 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
    二 多発する災害
      火災
 諸藩は町・在方に対して火の用心の徹底を指示していたが、しばしば火事が起こっている。当時の家は現在のものにくらべて燃えやすく、消防設備も整っておらず、家屋が密集している地域で火事が起こると広く類焼することが多かった。

表112 福井・大野・勝山・丸岡・鯖江藩領における主な火事

表112 福井・大野・勝山・丸岡・鯖江藩領における主な火事

 福井を初めとして府中・大野・勝山・三国湊などにおける主な火事をまとめたのが表112である。福井城下では焼失家数が一〇〇〇軒を超えるような大火が、万治二年(一六五九)・寛文九年・明和三年・八年・文政元年・安政元年に発生している。本多氏の居館のある府中では宝暦十二年・嘉永五年に焼失家数一〇〇〇軒を超す大火があり、三国湊では町家七八六軒を焼失した安永三年の大火に続き、同七年には口銭役所や町家一一二四軒を焼失する大火が起こっている。
 寛文九年四月に福井城下で発生した大火では、天守を焼失するなど被害は甚大であった。「家譜」によると、巳の下刻(午前十時頃)城東の足羽郡勝見村から出火し、巽風に煽られて大火となり、夜の亥刻(午後十時頃)に松本町でようやく鎮火した。城内では天守を初めほとんどの建物を焼失し、三の丸門と乾櫓が残っただけであった。家中では侍屋敷三七九軒、与力三三軒、足軽家一〇〇軒、徒三六軒、坊主二七軒、諸役人三九軒の合わせて六一四軒、町方では寺三七、町家二六七六軒(町数五九)が焼失した。この大火で残った町は城下北部の天王町と松本のうち八町分だけであった(『国事叢記』)。五月に帰国した藩主光通は城焼失のため芦田図書の屋敷を仮住居としている。
 安政元年六月の大火は巳刻塩町から出火し、西南の風に煽られ大火となり、酉刻(午後六時頃)に鎮火した。城内への被害はなかったが、侍屋敷五四軒を初め町家二二四二軒、東西本願寺掛所など寺五九か寺などが焼失した。
 大野城下では安永四年・九年・寛政元年・文政十年に大火が起こっており、安永四年四月の火事では城内本丸が焼失し、町家では一〇七一竃、土蔵二四七などを焼き、枝村でも被害が出た。この火事で類焼を免れた家数は一四四軒に過ぎなかった。続いて同九年三月には合わせて三三〇竃が焼失し、寛政元年四月には一〇一一竃が焼失した。文政十年五月の火事は南風で城内にも延焼した(土井家文書)。

表113 小浜藩領における主な火事

表113 小浜藩領における主な火事

 小浜藩領での火事を表113に示したが、敦賀では寛永十九年十二月に大火が発生し(「酒井忠勝書下」)、天保八年(一八三七)三月には町家を初め蔵、納屋など合わせて約七〇〇軒を焼失した(大和田みえ子家文書)。
 小浜では嘉永四年の大火で竃数三八二軒を焼失した。同六年三月十日の大火はさらに大きく、夕方に今在家町より出火し、大南風によって火は各所に飛び火し、町のほぼ全域が火に包まれた。この火事で家中屋敷一三軒、町方では二四一一軒、土蔵九一〇か所、寺三七か所などが焼失し、藩の施設も被害を受けた。この五年後の安政五年八月二十九日にも、夜中に洲崎町から発した火が北風に煽られて町家一八〇五軒を焼いている(『小浜市史』通史編上巻)。



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