江戸後期に起こった全国的な飢饉のうち、多くの飢人がでたのは享保・天明・天保の飢饉である。これらのうち、越前・若狭ではとりわけ天明・天保の飢饉は深刻な様相を呈した。まず、享保の飢饉からみてみよう。前項でもふれたように、享保十六年(一七三一)の冬は大雪であった。翌十七年三月には福井城下で「困窮之者」がでたため、町奉行は藩に対して御救米五〇〇俵を与えることの伺いを立てている。領内での御救米願は「所々右様の願数多」とあり(「家譜」)、領内全域において困窮する者がいたことがうかがえる。
享保十七年三月には、幕府領福井藩預所の丹生郡・坂井郡の一〇人の組頭から、廻米の猶予を初め御救米、夫食作食米の拝借願が出された。この願書の中で、組頭は「去秋存之外悪作ニ而稲苅候而曽而取目無御座迷惑仕候所、去冬何拾年ニも無御座大雪故春中諸費多山中稼等仕儀難成」と事情を説明している(小島武郎家文書)。同年秋は不作となり、米は冬から次第に高値となったため飢人がでた。福井藩では同十八年正月、町奉行・郡奉行・預所郡奉行へ藩主の自筆をもって、これまで通りの手当米の支給と「近辺町在・少々ツヽ助力を加へ相互ニ飢人無之様」にする旨を組頭へ申しつけるよう命じた。城下でも飢人へ「御手当」が支給され、組頭や頭立った者が申し合わせ介抱がなされている。同十七年暮れから翌十八年春にかけて、表114のように村々では米や稗などが施された(「家譜」)。 |