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 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
    二 多発する災害
      雪害
 享保十六年の冬は「百年以来之大雪」(『続片聾記』)で、雪崩によって人家が潰れ死人がでたことを翌年二月に福井藩は幕府に届出ている(「家譜」)。これは、死者を出した同十七年正月の南条郡大谷浦の大雪崩(向山次郎右衛門家文書)、潰家二九軒、死者三四人をだした南条郡新道村・大桐村・広野村・大谷浦での大雪崩(『越藩史略』)の被害届であろう。
写真86 大谷浦(「海岸図面」)

写真86 大谷浦(「海岸図面」)

 延享元年の冬から翌二年春にかけても大雪となり、南条郡帰村では二月に「泡なたれ」で七軒の家が押し潰され、死者一四人・けが人七人がでた(「家譜」)。福井藩は、宝暦十二年十一月には大雪によって城下で潰家が発生したため救籾六〇俵を、安永五年十二月には大雪による城下の困窮者へ手当籾六〇俵を支給した(同前)。敦賀町では文政十二年二月に、米の高値に加えて大雪のため難儀人四二五軒などへ町の商人七人から銭四二八貫文が施されている(大和田みえ子家文書)。
 雪崩によって村全体が大きな被害を受けた例として、郡上藩領大野郡下山村の枝村岡畑村がある。文化五年十一月十二日の雪崩で一五軒が被害にあい、五八人が死亡し、さらに翌日の雪崩で前日難を免れたうちさらに一一軒が全半壊した(『通史編3』第三章第四節)。同郡中野村の花倉家の十一月二十四日の日記に「大雪ニ付福井・府中夥敷家つぶれ候よし、殊ニ穴馬岡畑村十二日頃ゆきなだれニて家三拾軒斗つぶれ人六十余人死候由」と記されている(花倉家文書)。福井では十月二十八日から一丈ばかりの雪が降ったという(『続片聾記』)。
 小浜では宝永五年冬・享保十四年十二月・同十六年十二月・延享元年冬が大雪であった(『拾椎雑話』)。宝永五年冬は越前でも「近代珍敷大雪大荒」であり(久末重松家文書 資4)、享保十六年と延享元年の冬も前述したように大雪であるので、これらの年は越前・若狭ともに大雪に見舞われたとみられる。宝永五年は十二月二十五日から晦日まで毎日大吹雪となり、小浜町では五、六尺の雪が積もり、屋根から下ろした雪は軒より高くなった(『拾椎雑話』)。享保十六年十二月朔日から降った雪で、同二十五日には三方郡早瀬浦の五右衛門一家が雪崩で死に、常神浦でも六軒が潰れた。三方郡佐野村での雪は一丈七、八尺であり、三月二日まで雪が残り麦が腐ってしまった(野崎宇左衛門家文書)。『拾椎雑話』によれば、この冬には大吹雪の日があり、小浜では五、六尺降り積もり、敦賀では一丈、府中・福井は一丈五尺、大野では二丈であったという。延享元年の冬も四、五尺の雪が降り、翌年春も「毎日雪吹、余寒はけし」といわれるほどであった。敦賀ではこの雪は同二年三月末まで残った(柴田一男家文書)。
 文化九年冬も越前とともに大雪となり、十二月から降り出した雪は小浜で翌年正月には六、七尺になり、大飯郡本郷でも六尺程になっていた。この大雪を心配した藩主忠進の命をうけ、正月七日には潰家や難儀人の吟味のため小浜を初めとして四郡へ役人が派遣された。潰家への手当や難儀人への救済には御用達商人から調達された金一〇〇〇両があてられた(古河家文書、村松喜太夫家文書)。



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