目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
    二 多発する災害
      地震
 規模の大きな地震の被害は広域に及ぶので、越前・若狭ともに震源ではなかったにもかかわらずその影響を受けた地震は少なくない。とくに寛文二年(一六六二)五月一日と安政元年(一八五四)十一月四日の地震は大きな被害をもたらした。
 寛文二年の地震について「家譜」には「諸国大地震」と記され、福井藩は城の御門・升形石垣・勝見口冠木門などが破損したのでその修復を幕府に願い出ている。しかし、この地震は琵琶湖西岸が震源であったため、若狭により大きな被害を与えた。『拾椎雑話』には小浜における地震の様子が次のように記されている。四つ時大に鳴動し地震甚強く、人々肝をけし何の弁もなく、世は滅するとなきさけひ、老を助け幼を引すり、街道の場中に出す、……大ゆり二時はかりにて、小ゆりは間もなく止事なし、地は所々割れひゞれ、所により大われは下より泥を吹上け申に付、戸板を持出、外に畳を敷居たり、
 夕方になるとようやく鎮まったが、人々は津波がやって来ると騒ぎ立て、後瀬山などに避難したという。五月十五日夜にも地震があり、五月中は日に何度か余震が続いた。またこの地震は「大小震動する事申ノさかり酉の初迄も少もやまず、大地を打かへす斗り」で、各地の寺社の瓦が落ちたという(行方弥平治家文書 資8)。この地震で小浜城では、「本丸櫓下石垣壱ケ所、多門下石垣弐ケ所」を初めとする四六か所と「塀下石垣不残」「水敲石垣不残」が被害を受けた。また家中屋敷や町家にも被害が出た(「酒井家編年史料稿本」)。
 この地震によって気山川の川口が「一丈弐尺」隆起しふさがったため、菅湖と三方湖の水があふれ、湖岸の三方・鳥浜・田井などの村が湛水した。このため藩はあふれた水を久々子湖へ通すため、五月二十三日から「恨峠川堀」(浦見川)普請工事を始めた。この工事は二年後の寛文四年五月一日に完了し(行方弥平治家文書 資8)、湖畔の田地が元に戻ったほか、多くの干潟ができ新田開発が進められた。
 安政元年十一月四日の地震は遠州灘を震源とし、東海道・畿内に被害をもたらし、さらに翌日にも土佐沖を震源とした地震が発生し、南海道に大きな被害を与えた。この両日の地震によって越前でも大きな被害が出た。福井城内では本城建物瓦・壁、三重櫓・二重櫓や多門・渡櫓の壁が落ちたほか数多くの建物が被害を受け、侍屋敷などが潰れたり傾いたもの合わせて一一三軒、町家の潰れ・半潰れは一五五軒、在方の潰れ・半潰れは三二七軒、けが人二〇人、死者四人などの被害が出た(「家譜」)。これに対し藩は潰家へ籾一俵、半潰れへ籾半俵を与えた(小島武郎家文書)。大野藩領での潰家は大野郡で一六軒、丹生郡で五軒であり、このほか八五軒が大損となった。地震による揺れは毎日昼夜に七、八度ずつ、十一月十一日頃まで続いたという(土井家文書)。
 敦賀郡疋田村でも四日に強い揺れがあり、夕方になってもおさまらないので家へ入らず、雪の中に堀立小屋を立て五、六日間を過ごしたといい、敦賀町では壁にひびの入らなかった家はなかったという(「酒井家編年史料稿本」)。小浜では蔵などが少し傷んだ程度であったが、長い揺れを感じた人々は皆々瀬戸へ逃げたという。四日朝の大きな揺れに続いて昼と晩にも何度か揺れ、五日の夕方も再び大きく揺れた。余震は十日頃まで続いた。この年の六月十五日の夜中にも地震が発生しており、家の外へ逃げて夜を明かした人々は度重なるこの大地震を「誠ニ恐敷次第」とし、町中大騒ぎとなった(団嘉次家文書)。
 安政五年二月二十六日には加賀・越前あたりを震源とする地震が発生し、福井では城廻りに損所が出たほか領内在方では潰家一七軒、半潰八一軒、山崩れ九四か所などの被害が出た(「家譜」)。丸岡では「御城大破」といわれるように石垣がくずれたほか、城下の寺にも被害が出た(「藤原有馬世譜」)。勝山では潰家はなかったが、傾いたり壁が落ちたりした家や土蔵が多かった。このため町在では「皆々野陣取、夜分家之下ニ臥シ候者」は一人もなかったという。その後、三月十日頃まで揺れが続いたようだ(松屋文書)。



目次へ  前ページへ  次ページへ