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 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
    二 多発する災害
      小浜藩の洪水と旱魃
 小浜藩領の洪水をみてみる。表111は「酒井家編年史料稿本」から風水害の記事をまとめたものである。このうち大きな被害を出したのは享保二十年と文化四年である。

表111 小浜藩領の主な風水害

表111 小浜藩領の主な風水害

 享保二十年は土用前から日照りが続き二五日間にわたって雨が降らず、酷暑が続いた。しかし、六月二十一日に半日ほど雨が降り、夜半から東南の風が吹き大雨になった。二十二日の明け方から各地で山崩れが起き、谷はふさがり、水は一気に流れ出し橋や民家を押し流し、大洪水となった。小浜町では早朝から水がつき始め「町中満水大海」のごとき状態となり、多くの家財道具が海に流れ出し、濡米・大豆は三〇〇〇俵余、濡四十物三万個などの被害が出た(『拾椎雑話』)。山崩や山抜は下中郡・大飯郡・上中郡・三方郡で合わせて一万一〇四〇か所、流失した家屋は三五五軒、潰れた家屋は三七八軒、半潰の家屋は五五五軒、流死人は九一人であり、とくにその被害は名田庄谷に集中した(「若狭国洪水之次第」)。また、大雨をともなう西風によって海上は荒れ、町浦では破船が出た。
 文化四年は五月と九月の二度にわたって洪水にみまわれた。五月の出水では土手切や山崩れによって田畑に三万二三六八石余の被害が出た。小浜町では九月十六日の朝から降り出した雨は夜中に大風雨となり、翌十七日には大水となり、昼時から出水し夜中には満水となった。城内へも水が入り、二の丸床間へは床から二尺五寸まで水が上がった。水は二十日の晩にはひいたが、町では板橋や土橋など多くの橋が落ち、領内の田畑には砂が入った(古河家文書)。在方では川切れや山崩れなどによる被害が出、なかでも三方郡新庄村では山崩れで八軒が押し流され、八人の死者がでたという(加茂徳左衛門家文書)。この洪水に対して、藩は領内へ救金三〇〇〇両を与えた(古河家文書)。
 一方、宝永六年(一七〇九)の五、六月は日照り続きで渇水となり、六月二十二日には神宮寺で雨乞がなされた。寛政六年は六月三日の風雨洪水後、六〇日間日照りが続き大飯郡和田村では夏作物の種をも取ることはできず、七月九日から上瀬宮で雨乞の祈外字が始まり、十一日には三方郡内の庄屋が残らず参詣した(「酒井家編年史料稿本」)。



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