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 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
    二 多発する災害
      浦方の被害
 浦方では家居堰・石垣や波除堤・田畑囲堤が激しい風にともなう大高波で打ち崩され、田畑や家居、漁船に被害が出た。福井藩領では慶安三年(一六五〇)閏十月の「大風雨津波」によって浦々で家五百余軒と船百余艘が破損し、溺死者三三人がでた。また、宝暦六年十一月の大風では一八か浦へ大波が打ち上げ、家居・道橋・田畑に被害が出た(「家譜」)。丹生郡厨浦では波除堤が打ち崩され、塩浜九二か所のうち八五か所が押し流され荒地となり、桶や手桶などの道具も被害を受け(青木与右衛門家文書)、坂井郡白方村では田畑や家を囲っていた垣が吹き飛ばされ、六軒が半潰となった(白方区有文書)。文政十二年十一月には「洪波」で茱崎浦など六つの浦で潰家や半潰家が出、福井藩から潰家へ籾一俵半、半潰へ籾三斗四升二合の救籾が支給された(「家譜」)。
 三里浜では風による砂の害がみられる。坂井郡山岸村では、村の北西に「砂山」があるため「年々砂埋りニ相成、追々御田畑共損亡仕、過分之地所無土同様」となり、太閤検地で三六町九反余あった田畑は寛永六年(一六二九)には二三町八反余、享保十六年には九町九反余に減少した(林三郎左衛門家文書)。また、「慶長国絵図」には山岸村の北に北沢村(村高二八石一斗)がみえるが、この北沢村の田畑は慶長(一五九六〜一六一五)期に砂によって埋没したと伝えられ(同前)、「正保郷帳」には北沢村の記載はない。このほか、三里浜最北端に位置する泥原新保浦では元禄十三年の暮れに一番小路町が「砂埋」のため町地子銀が下がり、翌十四年には二番小路町から順に町地子改がなされた。また、同年には砂除のため村の西側にあたる砂丘側の山に「桑柳之類」を植えることを福井藩に願い出て許され、これを船持の家の間口に応じて割り付けている(久末重松家文書)。元文三年(一七三七)には、近年田畑が砂に埋まったのに加えて以前は多かった船数は減り、家数も六百余軒から四百余軒となり、「御納所向困窮」のため手当を願い出ている(「家譜」)。
 三里浜では田畑を砂の害から守るため、合歓木を植え、それが「生立草付」となったところへ松苗が植え付けられた。山岸村では文化十二年から福井藩の支援のもと、この「松苗植付御趣法」が始まった(林三郎左衛門家文書)。



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