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 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
    二 多発する災害
      旱魃と風水害
 福井藩は明和八年(一七七一)・寛政六年(一七九四)・文政元年(一八一八)・嘉永六年(一八五三)、幕府に旱魃の被害届を出している。それらによれば、明和八年は預所(高四万六四七二石余)の毛付田高三万一二五一石余のうち二万〇七五七石余が被害を受けた。寛政六年は梅雨の頃から八月中旬までの旱魃によって、用水懸かりの乏しい村では水不足となり、八万六七九一石余の損毛を報告している。文政元年は五月中旬から八月上旬までの約七〇日間の日照りで、用水不足の村々では「田畑白割、立枯」になり、七万四二〇三石余の損毛となった。また、嘉永六年は八月上旬まで日照りが続き、損毛九万九六三三石が出た(「家譜」)。
 鯖江藩領下新庄組下の村々では、明和八年の旱魃により用水が不足し植付ができない田や、田植えはしたもののその後の水不足のため「白割」になった田が生じた。辛うじて水がある田でもこのまま雨が降らないと、「過半」が白割となる状態で、畑方は「荒地同前」であった。各村では、水不足の対策として「池」を掘って水を得ることを藩に願い出て許された(福岡平左衛門家文書)。

表110 福井藩領の主な風水害

表110 福井藩領の主な風水害

 旱魃は用水が不足する村だけに影響を与えたのに対して、風水害はより広域にわたるため被害は大きく、また回数も多かった。表110は幕府に被害届が出された福井藩領の被害状況である。このうち寛政元年を例にとって具体的にみてみよう。六月十一日から大雨が降り、十六日に出水し城下にも水が押し寄せた。さらに閏六月一日から八日まで大雨が降り続き、「古来外字無之大水」となり、再び田畑に石や砂・泥が入り城下も洪水となった。二度にわたる大水で領内四七四か村が被害を受け、家や小屋の流潰二一四軒、橋の流失六六か所のほか、田地囲川除堤二一二か所、川除所一三六か所、川除大刎一六か所、用水江筋三七か所、用水堰所五か所などが流失した。
図19 坂井郡野中村の年貢率(1686〜1806年)

図19 坂井郡野中村の年貢率(1686〜1806年)

 坂井郡は深田が多く、九頭竜川や竹田川の氾濫のため風水害を受けやすかったが、そのうち野中村についてみてみよう。野中村は村高四三五石余(「元禄郷帳」)で、兵庫川下流右岸の低地に位置する。図19は貞享三年(一六八六)から文化三年(一八〇六)までの年貢率(高免)の推移を示したものである。延享元年(一七四四)から宝暦十三年(一七六三)までの幕府直轄領の時期は年貢率が一五パーセント前後となることがあるが、それ以外の年は一〇パーセントを超えることは少ない。引高は、福井藩預所であった享保五年(一七二〇)から寛保三年(一七四三)までの間は郷蔵敷引の一斗二升以外認められていないが、幕府直轄領であった期間は水損・旱損・風損とそれらにともなう虫付によるものも認められている。このうち水損によるものは七割をしめ、水害が収穫に大きな影響を与えていたことがわかる。引高が二一八石(五割)を超えた年は、貞享四年以降一〇回あり、いずれも水損や水損虫付によるものである。元禄十二年(一六九九)は水損で取米はなく、寛政元年は水損虫付により取米はわずか一石九斗余であった(小島武郎家文書)。
 台風による被害が大きかった例に、弘化三年(一八四六)七月十八日(太陽暦では九月八日)の大風がある。七月十八日は午後二時頃から南東の激しい風が吹き始め、午後四時頃から西風に変わり大風雨となった。「古今未曾有之暴風」により、福井城下では城内の建物に被害が出たほか、家中屋敷潰家・大破一一三六軒、町潰家二二六軒、在方では潰家一三七一軒を数え、けが人二五人、死者一八人がでた。また立ち木にも被害が出、城廻りの大木六五一本が吹き倒された(「家譜」)。鯖江藩領での被害は潰家三二五軒、けが人一人、即死人六人などであった(『間部家文書』)。大野藩領では田畑の被害のほか潰家が五八軒あった(土井家文書)。家屋が倒壊した者へは、福井藩では潰家一軒当たり籾一俵(代銀三五匁)、半潰者へ籾半俵(代銀一七匁五分)が、鯖江藩ではそれぞれ籾一俵半、一俵ずつの手当が藩から支給された(旧粟田部村役場文書、千秋勝稔家文書)。



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