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 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
    一 江戸初期の飢饉
      延宝の飢饉
 その後全国的には延宝三年(一六七五)・同八年に飢饉がみられた。三年の飢饉は前年の風水害、八年のものは風水害と冬の大旱による凶作によるもので、翌天和元年(一六八一)まで影響した。
 延宝二年六月十一日には雹が降り、このため「稲草枯て大凶年」となった。翌三年三月二十七日、小浜町では飢人一二六六人に施粥が行われ、一人当たり五勺ずつの粥が五月晦日まで与えられた。有力町人から銭一九七貫文が集められ、町中にあふれた貧人に八月二日から九月十二日まで一日に三文半ずつを与えた。この年の飢饉は餓死人が多かったため、後年「卯年大飢饉」といわれた(『拾椎雑話』)。また、小浜藩は同三年二月に諸国飢饉のため米穀の津留を実施している(「酒井家編年史料稿本」)。
 小浜では、延宝八年閏八月六日八ツ時(午前二時頃)から大雨となり、北風が吹き、五ツ時(午前八時頃)過ぎに西風に変わり、家の屋根がまくれた。四ツ時から出水し、町会所前では水の高さは四尺となり、小浜城の堀に架かる土橋は町の方約二〇間が落ちるなど大洪水であった。この年は「諸国一統洪水にて悪作、野菜青草なし、尤雑穀なし」と伝え、暮から翌天和元年二、三月にかけて米は高値となったため、施粥が行われた。遠くから来る飢人の中には「今一時半時を待ちかね、粥を見てころひ死するもの多」くあり、飢え死にする者がいたようである(『拾椎雑話』)。
 延宝の飢饉は、「橘宗賢伝来年中日録」(福井県立図書館文書)によれば「延宝三年卯天下飢饉、別シテ越前人多死、堀穴埋死人、同八年申越前飢饉人多死、山奥石ケ谷・立屋小山谷・平岡、右三ケ処ニ堀穴埋死人由」とあり、越前でも同様であった。また、延宝八年は「今年より来年迄御国饉餓死る者多し」(『続片聾記』)ともいわれている。
 天和元年夏には大旱に加えて七月十八日の大風で稲はことごとく吹き折れ、前年に引続き凶年となり米値段は高くなった(『拾椎雑話』)。同二年二月には小浜町の乞食は毎日一五〇〇人を数え、三〇日間にわたり常高寺による施行が行われ、三月からは藩による施行が始められたが、この時期は疫病がはやり多くの死者がでた(「酒井家編年史料稿本」)。天和元年の飢饉は越前でも同様であり、『片聾記』には「御国大ニ飢饉ス、餓死人道橋をふさぎ、死骸平岡山石ケ谷に埋」めたとされ、「家譜」には「当年大飢饉ニ付収納相滞」とある。



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