目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
    一 江戸初期の飢饉
      百姓の救済
写真84 酒井忠勝書下

写真84 酒井忠勝書下

 次に「酒井忠勝書下」によって、小浜藩の百姓に対する救済についてみてみよう。救済には夫食米や種籾の貸付け、施粥などの方法がある。
 寛永十九年の作付を心配した忠勝は、五月に「領分当年者田畑少成共あら(荒)し候ハぬ様」に申しつけ、その手立てを具体的に次のように指示した。(1)苗代が悪く苗がないところへは貸物をし、二番苗を作ること、(2)日照りによって水不足になる村々では、百姓に「扶持方」を与えるか、または藩から人を派遣して、溜井戸を作らせること。(3)出水に備えて堤や川除の普請を百姓へ「扶持方」を与えてさせること。(4)ことのほか草臥れている村々へは、堤・川除・溜井の普請を申し付け、それに対して渡す「扶持方」を常より多く出すことなどであった。
 同年七月十九日忠勝は江戸を発ち、八月一日敦賀に、五日に小浜に到着し、十一月半ばまで在国している。帰国早々の八月には早くも「在々草臥者ニ五合ふち(扶持)」を与え、城の堀の砂をとらせるよう命じているが、困窮者を普請工事に参加させることにより少しでも夫食米を与えようとしたのである。これより先、懸案であった菅湖周辺の水はけを良くするために、六月二十日から七月二十日まで行われた「気山川之瀬替」え工事(熊谷平兵衛家文書 資8)も救済策の一つであった。また、翌二十年二月にも飢人のうち「がんじやう(頑丈)なるもの」には二合扶持を与えて井堤の普請をさせるように指示している。
 次に、百姓への夫食米や種米の貸与についてみることにする。寛永十九年十二月に忠勝は、翌年正月から種貸と夫食貸を始めるよう指示し、同二十年二月には「郷中種貸」を例年より五〇〇〇俵多くするよう命じている。寛永十九年から二十年にかけて小浜藩が領内に貸し与えた夫食米は、村々へ一万五〇〇〇俵、このほか小浜へ四〇〇〇俵、敦賀へ三〇〇〇俵、高浜へ五〇〇俵、高浜の漁師へ二五〇俵、西津の漁師へ三〇〇俵、佐柿の町と漁師へ三〇〇俵、熊川へ三〇〇俵、近江の船木へ一〇〇俵であった。種貸米の量は一万一五二八俵であり、両方合わせて三万五二七八俵・(約一万四〇〇〇石)であった。
 寛永十九年十二月、忠勝は年貢皆済の有無にかかわらず「かつゑ死候ハぬ様ニ夫食をあた(与)へ」るように指示するとともに、領内へ他国からの飢人の流入を防ぐよう命じた。さらに翌二十年正月から三月の内は飢人がことのほか増えることが予想されるので、飢え死にすることのないように小浜・敦賀・高浜での施粥の準備を命じ、次のような「かゆの調合之書付」を国元へ送った。
    飢人養申かゆ之積
  一、稗壱斗六升    粉六升四合
  一、麦八升      粉四升六合
  一、 あらめにても干なにても    きさみ壱斗四升きやうふニても
  一、塩        四升
  一、水        壱石四斗
  右之かゆ五百はい一日弐百廿人之養
 これによれば、粥には稗・麦と荒布・干菜・ぎょうぶ(りょうぶの異称で若葉は煮て食用となる)などを入れるよう指示しており、同二十年正月には麦・稗がない場合は米を入れてよいとしている。年があけると、領内に飢え死にする者がみられ、小浜では城近くの堤に捨て子が多くなった。飢人が領内から他国へ出ないよう指示していたにもかかわらず、京都では若狭からの流出者が一九人みられたという。
 小浜藩は飢人を次の「三段」に分けて救済している。「一段」目は家・田地を持つ百姓で、自力の立ち直りを期待して夫食米や種米を貸し与えている。「二段」目は田地を持たない百姓で、村の庄屋に請け負わせて夫食米を一合ずつ貸し与え、「三段」目の小浜や敦賀などの飢人には粥を与えることとした。施粥は二月八日からまず小浜で始まった。飢人は日に日に多くなり、十三日には七〇〇人を数えた。この数の増大を心配した藩は、村々と町の飢人の区別をはっきりさせ、「三段目之飢人」のみを施粥の対象として、小浜に加えて敦賀・高浜の三か所で施粥を行うよう指示した。粥は一人に一合三勺ほどであった。『拾椎雑話』によれば、四月には小浜町の貧人は八一〇人であり、貧人に一人あたり一日一合五勺ずつ、合わせて五七俵一斗六升が与えられた。



目次へ  前ページへ  次ページへ