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 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
    一 江戸初期の飢饉
      寛永末年の凶作
 寛永末年は、十八年(一六四一)から十九年にかけての冷害による凶作で全国的に大飢饉となった。同十九年六月、幕府は倹約、百姓の未進、百姓への夫役の賦課、五穀の節約、煙草の作付制限などについての法度を出しており、この中で「当年は諸国人民くたひれ(草臥れ)候の間」ととらえている(『御触書寛保集成』)。

表109 遠敷郡2か村と小浜藩の取米(1636〜45年)

表109 遠敷郡2か村と小浜藩の取米(1636〜45年)

 その様子を小浜藩でみてみることにする。表109は遠敷郡上野木村の引高と取米、天徳寺村の取米、小浜藩の収納高を示したものである。寛永十九年・二十年の取米はそれ以前に比べて少なく、作柄が悪かったことがうかがわれる。上野木村の十九年の引高には「先川成」のほかに「水押、風相」があり(武田小太夫家文書)、そのほか同年の三方郡三方村や大飯郡高浜村の引高には「寒立、虫入」「虫入、冷田、風相」がみられ(千田九良助家文書、常田幸平家文書)、全国的な冷害の影響をうかがうことができる。二十年の取米が少ないのは、引高に上野木村には「雨くさり」、高浜村には「虫入、冷田」があることから、虫害に加えて気候の回復が遅れていたことによるのであろう。なお、小浜藩の正保(一六四四〜四八)期の収納高は少し回復するが、以前の水準には及ばない。
 このような不作に対して藩主酒井忠勝は、寛永十九年三月に国元の年寄衆に、「領分在々殊之外つまり申候由聞及候間、百姓共かつ(飢)へ死不申候様ニ可仕候事」、また「むき(麦)作ちか(違)い候者、秋への取次ニ百姓共つまり申事可有候間、領分所々ニ八木(米)残置可申候」などと、飢饉で餓死するものがないよう仕置するよう命じている。五月には、小浜や敦賀に北国から米が入ってこないことを予測し、江戸にならって小浜を初め、敦賀・高浜・熊川・佐柿などの町場で、秋口まで酒・豆腐・麩・うどん・切麦などを作ることを禁止した(「酒井忠勝書下」)。
 寛永十九年十二月の未進米は六万俵にものぼったため、忠勝はその晦日には「若百性とも迷惑仕、身をもうり(売)申候か又他国なとへも越候へハ、以来迄之無仕置ニ成可申候」と述べ、「今壱分通ハくる(苦)しからす候間引可申候」と年貢率を引き下げるよう指示している。忠勝はこの飢饉を「五十年百年之内ニもまれなる儀」ととらえ、万全の仕置をすることを命じたのである(「酒井忠勝書下」)。




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