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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
     四 近世後期の西廻海運と越前・若狭
      「北前船」とは
 ところで、近世後期から明治期における日本海海運を語る上で欠くことのできないほど有名になった言葉として「北前船」があげられよう。今日、日本海沿岸の多くの地域では、この言葉に幻想と郷愁をあふれんばかりに注ぎ込んで使用されているのが現状といえようか。
 しかし、実際に使用された「北前船」という言葉は、あくまでも上方や瀬戸内方面において日本海沿岸方面から来る廻船をそう呼んだものであり、当事者であろう日本海沿岸の廻船では、あたかもこの言葉を使用するのを避けていたかのように、当時の記録には表れない(石井謙治『図説和船史話』)。
 こうした一種のあだ名でもある「北前船」という言葉に対して、定義を設けようという試みがいくつかなされている。それらをまとめると、次の条件を満たす廻船とされる。(1)蝦夷地から大坂までの西廻航路を範囲とし、(2)買積を主体とした不定期の廻船であること。これに加えて、(3)船型を「北国船」「はがせ船」・弁才船から西洋型帆船までとするか、そのうち前二者を日本海側のローカル船と見なして含めないか、(4)船主の出身地を北陸あるいは北国地域に限定するか否かが主に争点となっているといえよう(牧野隆信『北前船の時代』、柚木学『近世海運史の研究』)。
 こうした「北前船」の定義は、日本海海運の全体的な実態分析を十分踏まえないまま議論された経緯がある。そこにおいては、商品流通の発展にともない簇生してくる諸国廻船の全国的な動向であったのか、それとは別に呼び名が与えられ得る実態が存在したのかという区別さえ明確ではない。しかし、近世後期における諸国廻船の一般的な隆盛とは一線を画す、特徴ある廻船が確かに文化・文政期以降の西廻海運で活躍していた。そして、西廻海運の沿岸地域すべての廻船にその活躍の可能性があり、とくに地域的限定がされていたはずはないと思われるが、実際上は越前や加賀を初めとする北陸の廻船が多かったのは否定できない。
 このような地域的な偏りの理由を、北海の荒波をものともせず、「板子一枚下は地獄」の世界を生きた者たちの「北前魂」がなせる業であったとの精神論のみで片付けるわけにはいかないであろう。しかし、その要因の一つとして近世初期以来、日本海を知り尽くした航海技術や知識の蓄積がこれらの地に伝承されていたことは想定できぬであろうか。



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