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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
     四 近世後期の西廻海運と越前・若狭
      越前・若狭の船主の行方
 右近権左衛門家が幕末期から急速な成長を遂げ、大船主の道を歩んだのは、北海の荒海を乗り切る航海技術者集団を抱えている立場から、時代の要請に応えた結果であったともいえよう。右近家のように、買積でありながらも大坂と松前・蝦夷地間の鰊肥料の大量輸送によって利鞘を稼ぐ廻船経営に特化した船主たちは、幕末から明治維新期にかけての物価動乱を背景に資本を蓄積し、近代的な輸送業者となる可能性の芽をふくらませつつあった。それが明治政府による上からの輸送体系の近代化の圧力に屈することなく、汽船を所持し荷主の意向に沿って運賃積経営に転化することができた時、真に近代的な輸送業者となることを現実のものにしたのである。
写真83 明治初期の敦賀湊

写真83 明治初期の敦賀湊

 一方、敦賀湊・小浜湊・三国湊など、地域市場圏の拠点湊に位置した商人船主も、安定的に商品を集荷、販売する船腹が恒常的に確保できれば輸送部門の必要性は低下し、船主としての側面は薄れていった。しかし、その商業部門も依拠している地域市場圏の枠に規制されざるを得ない。明治中期以降、鉄道と汽船の発着点として、関西、中京方面と北海道、さらには中国大陸との間をも結ぶ中継地となった敦賀湊、鉄道建設の遅れた山陰方面との交易に一時的な活路を見いだした小浜湊、鉄道中心の新たな輸送体系からはずれて沖合い、遠洋漁業を中心に再生を期した三国湊と、越前・若狭の各湊の行方は一様ではなかった。



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