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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
     四 近世後期の西廻海運と越前・若狭
      右近家の廻船業の展開
 右近家の廻船経営が大きな飛躍を見せたのは嘉永期以降のことで、九代目権左衛門の頃に当たる。右近家では、「歩持」と便宜置籍船により積極的な廻船経営を展開した。青森湊の船問屋滝屋の文久二年(一八六二)の「諸国客先日記」によれば、大坂の木綿問屋和泉屋嘉平司が三艘、近江商人の藤野他四郎が四、五艘と、それぞれ右近家との「仲間船」であったことを記している(滝屋善五郎家文書)。これらは、どこまでが「歩持」で、どこからが便宜置籍船であるかの詳細は不明であるが、同郷の中村三郎右衛門などとの相互出資による廻船も加え、右近家の廻船数は飛躍的に増加した。それとともに、廻船の規模も大型化し、その収益も莫大なものとなった。なお、船頭のほとんどは弟や息子など身内の者で固められ、各々が右近家の廻船を支えた。彼等には、若い頃自ら船頭として経験を積んだ九代目権左衛門から、航海の知識や技術が伝授されたことであろう。
 ところで、右近家は、小浜湊の古河屋のように、領主に収益を吸い上げられ経営の停滞を招くことはなかった。これは、右近家の廻船の活躍が目立ち始めたのは幕末からであったことにもよるが、さらに重要なのは、多くの廻船が右近家の名義ではないため把握されにくかった点である。たとえば、慶応元年(一八六五)に余内金徴収のため河野浦で廻船を書き上げた中に、右近家の廻船は四艘しかなく、「歩持」で中村家の廻船として計上された二艘を含めても、一二艘あった実態とは大きくかけ離れている(右近権左衛門家文書)。河野浦は近世を通じて福井藩領であったが、その御用金賦課の対象は福井城下とその外港である三国湊が主であった。こうした右近家の領主との関係の希薄さ、目立たなさが、古河屋の廻船経営とは対照的な展開、大船主への道をもたらしたのであった。
図18 河野浦右近家の廻船数と収益額(1832〜67年)

図18 河野浦右近家の廻船数と収益額(1832〜67年)
注) 「船手勘定帳」(右近権左衛門家文書)により作成.

 図18は右近家の天保から慶応期までの廻船数と収益額を示したものである。天保期には二艘の廻船で、収益が一〇〇〇両を超すことはほとんどなかったのに対して、文久二年以降は廻船が一〇艘以上となり、収益も一万両の大台に達している。この時期の貨幣価値の下落を考慮したとしても、安政(一八五四〜六〇)頃から幕末にかけての増加は著しい(右近権左衛門家文書)。その航海は、一般的にいわれるように、大坂から松前・蝦夷地までの年一回の往復に単純化されつつあったが、この頃の収益の状況はまさに「一航海千両」であり、幕末の物価動乱を追風に受けて、右近家の廻船は西廻海運を縦横に活躍したのであった。



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