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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
     四 近世後期の西廻海運と越前・若狭
      小浜湊古河屋の廻船業
 若狭の代表的な船主である小浜湊西津の古河屋嘉太夫家は、その初代が沖船頭から独立したのは享保十二年(一七二七)のことである(古河嘉雄『海商古河屋』)。彼は七〇石から八〇石積の船で、越後から秋田への茶商売を第一に廻船業を営み、隠居した延享二年には二艘の船と銀三〇貫匁余を資産として残した(古河家文書 資9)。その後も数代にわたり順調な廻船経営が続けられ、図17に示すように、天明(一七八一〜八九)・寛政(一七八九〜一八〇一)期にかけても飛躍的な資産増加が見られた(古河嘉雄家文書)。所有廻船数も、確認できるもので最大九艘に及んだが、船頭の多くは身内以外の南条郡河野浦など他所の者が勤めるようになり、それゆえ先述のような「沖船頭条目」も必要とされたのである(同前、古河家文書 資9)。 
図17 小浜古河屋の資産(1782〜1857年)

図17 小浜古河屋の資産(1782〜1857年)
注) 古河嘉雄『海商古河屋』の「店おろし勘定総括表」により作成.                                 
 古河屋の資産の伸びは文化期を境に停滞に入る。その最大の原因は、寛政期以降、地元小浜藩を初め越前、丹後などの諸藩の領主財政に関係するようになったためである。これは、年貢米売却の代行などで利潤を得られた反面、調達金や上納金は際限なく続くことになった。とくに文化九年には、小浜藩にこれまで調達金として貸し付けていた八〇〇〇両余をそのまま上納するよう命じられている(古河嘉雄家文書)。先の図17で明らかなように、それまでに四万両を超える蓄積を遂げていた古河屋の資産は三万両そこそこに落込み、その後も続く資金調達で、三万両前後の資産を維持させるにとどまった(同前)。ただし、嘉永三年(一八五〇)に古河屋船頭中が奉納した船絵馬によれば、九艘すべてが文字どおり「千石船」の規模であったことが確認できるので、古河屋の廻船業自体が衰退したのではなく、収益の多くが領主に吸い上げられ資産増加に結びつかなかったことを示すものであろう。
 幕末・明治維新期の物価動乱で一獲千金を求める船持たちにより廻船業が隆盛を迎えるなか、古河屋は小浜藩の戊辰戦争の出兵費用捻出のため、持船すべてを売却するにいたる。



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