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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
     四 近世後期の西廻海運と越前・若狭
      商人船主と浦方船主
 名義上大坂などの船籍の廻船になった北陸の廻船とは、どのような性格を持っていたのであろうか。それを越前・若狭の例でみてみよう。
 そもそも船主は、その性格上二つに分けられる。一つは、三国湊、敦賀湊、小浜湊などの問屋商人が商品の集荷、販売のために船主となる例(商人船主)である。先の「御客船帳」にみる大坂の船主も、見かけの場合も含めて、商人船主と言えよう。もう一つは、河野浦の右近権左衛門家や中村三郎右衛門家など、船頭や水主といった航海技術者を多く抱える浦方の船持(浦方船主)であった。この多くは一艘船主であったと考えてもよいであろう。こうした商人船主と浦方船主が並存する状況は、商業部門と輸送部門とが分業化していない過渡期段階のものである。そして、大坂を初めとする商人船主が求めていたのは、北海の荒波の経験が豊富な浦方船主とそこで抱えている航海技術者たちであった。
 天保期以降、幕末から明治維新期にかけての流通の混乱は、船腹の不足となって船主たちには莫大な利益をもたらした。とくに、航海技術者たる浦方船主は、商人からの資金援助による「歩持」で、より規模の大きい廻船に船腹を拡大し、あるいは廻船を増やし、さらなる利益を獲得する道が開けていた。船頭以外の乗組員も、自ら培った航海技術を活かして新たに船頭になり、さらに独立した船主となることも夢ではなかった。
 では、こうした近世後期から幕末期に、対照的な道を歩んだ船主の例を、小浜湊の古河屋嘉太夫家と河野浦の右近権左衛門家でみてみよう。



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