目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
     四 近世後期の西廻海運と越前・若狭
      大坂市場の衰退
 大坂への米穀入津総量は近世後期に増加の途をたどり、文化・文政期には二五〇万から三〇〇万石に及んだともいわれる(本城正徳『幕藩制社会の展開と米穀市場』)。しかし、天保期には減少に転じ、その代わりに兵庫や堺など大坂周辺で米穀市場の発展がみられるようになる。それは納屋米だけの動向ではなく、諸藩の蔵米にもおよぶものであった。加賀藩においても、三国湊の商人宮腰屋(三国)与兵衛が廻米を請負い、文政元年には六万五〇〇〇石を兵庫の北風荘右衛門方で売りさばいている。この背景には、借財をめぐる加賀藩と大坂蔵元との関係悪化があったという。
 一方、鰊肥料など蝦夷地産物の大坂入津量も文化・文政期に増加をみせる(「大阪北海産荷受問屋組合沿革史」)。こうした状況に目をつけ、文政二年には干鰯商仲間の一部が松前最寄組を組織し、大坂入津の鰊肥料を松前登物問屋が一手に取り扱うとする新仕法を企てた。しかし、大坂は天保四年には「近年追々兵庫表にて多分商事になり、当地へは荷物が来ない」事態となる(同前)。諸廻船が問屋口銭などの経費を嫌ったこともその理由の一つであろうが、より重要な問題は、大坂では上荷船による荷役作業がはかどらず、費用も高くつくということであった(高嶋屋文書)。
 大坂では、河口が土砂の堆積で浅くなって廻船の停泊地が問屋から遠く離れたため、荷揚げには上荷船で何往復もする必要があった。この時期は米穀入津の増大に鰊肥料が加わり、上荷船は過積載を余儀なくされ、荷揚げ作業も夕方で終わらないため上荷船の泊り賃が必要なほどであった(高嶋屋文書)。大坂における港湾機能の限界は、荷揚げのしやすい兵庫や堺など大坂周辺の湊へ廻船を向かわせることになり、入津量の減少に対応した大坂の仲買たちを、商品を求めて兵庫などへ直接買付けに奔走させる結果を招いた(「大阪北海産荷受問屋組合沿革史」)。
 大坂市場衰退の転機とされる天保期とは、まさに「御客船帳」で摂津における北陸の沖船頭記載が急増する時期と重なり合うのである。さらにその時期は、「御客船帳」の中で松前・蝦夷地からの登り船が急増する時期でもあったが、この登り船の船籍は北陸を中心とする日本海沿岸諸国と摂津・和泉であり、逆に同じ日本海側でも山陰はほとんど見られない。このうち山陰の廻船の動向は、それが地元特産物を輸送するもので、小型廻船が多く、松前と大坂を結ぶような廻船ではなかったとの指摘に沿った内容である。では、摂津や和泉の廻船はどうであったか。



目次へ  前ページへ  次ページへ