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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
     四 近世後期の西廻海運と越前・若狭
      近世後期の西廻海運の動向
 近世後期から幕末にかけて、越前・若狭を初めとする北陸の廻船の動向は、西廻海運全体の中でどのように位置づけられ、どのような変化をみせるのであろうか。日本海沿岸西部の石見外ノ浦の清水家が現在所蔵する「諸国御客船帳」(以下「御客船帳」)は、その概要と変遷を示す好例であろう。なお、客船帳とは船問屋の顧客名簿に当たり、入津した廻船との取引きを行う権利を確認するため作成されたものである。
 この「御客船帳」を紹介した柚木学の成果に依拠して、その概要を示せば次のようである。それには延享元年(一七四四)から明治三十四年(一九〇一)までの一五八年間にわたる客船八九〇六艘が記載されているが、残念ながら廻船の規模はほとんどわからない。記載された客船数を地域別、時期区分別にまとめたのが表107である。これによれば、文化(一八〇四〜一八)・文政(一八一八〜三〇)期を画期に西廻海運の主役は、上方・瀬戸内を船籍とする廻船から北陸や山陰を船籍とする廻船に変化している。

表107 石見外ノ浦「諸国御客船帳」に記された客船数(1744〜1901年)

表107 石見外ノ浦「諸国御客船帳」に記された客船数(1744〜1901年)


表108 沖船頭記載のある摂津廻船の入津数(1759〜1901年)

表108 沖船頭記載のある摂津廻船の入津数(1759〜1901年)

 この主役の交代は、柚木によれば、上方船から山陰・北陸地方の廻船に直接的に移行したものではない。北陸地方の船頭が、まず大坂商人所有の廻船に沖船頭として雇われ、かたわら廻船業に従事しながら、やがて幕末・明治初期にかけて自立し、自ら船主となって成長していったもので、その理由は「御客船帳」の摂州の項目に北陸の沖船頭の記載が多いからであるという。そこで、試みに「御客船帳」で摂津の沖船頭記載を、地域別・時期区分別に示したのが表108である。史料に記載されたデータが少ないため確実性をやや欠くが、沖船頭記載は北陸の廻船にとくに多く、その時期も天保(一八三〇〜四四)期後半から急増していること。山陰は北陸よりやや遅れて幕末に増加はするものの、北陸よりはるかに少ないこと。その他の地域は早くからみられるものの、その数は少なく変化に乏しいことなどの傾向を指摘できよう。
 すなわち、摂津において北陸の沖船頭記載が急増する時期は、北陸・山陰の廻船が西廻海運の主役に躍り出た文化・文政期より若干遅れた天保期後半以降にずれ込んでいる。実は、この時期のずれは、中央市場大坂の動向が深く絡んだ結果であった。



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